BJ 8/5(日) 04:17:42 No.20070805041742 削除
そのときの妻の表情を、私は一生忘れられないでしょう。
妻は一瞬にして私の言葉の意味を悟ったようでした。
見開かれた切れ長の目、その黒々とした瞳に薄い皮膜のような微光が揺らめき、ふっくらとした唇はかすかにわなないて、形の良い小ぶりの歯が覗きました。
胸のつぶれるような想いで、私はそんな妻を見つめていました。目を逸らすことは出来そうにありませんでした。
妻もまた視線を外すことなく私を見つめていました。
そのまま、時間は静かに過ぎ去りました。やがて、蒼く透けるようだった頬に少しづつ生気が戻り、ぼやけた瞳の輪郭がくっきりとしてきた頃、妻は口を開きました。
「ずっと、考えていたんです―――」
妻の声のトーンはいつもと同じようにしっとりと落ち着いていましたが、あらゆる感情が麻痺してしまったような無色透明の響きでした。
不意に吹きつけたらしい風に、窓が鳴りました。
「去年の夏に・・・あのときに、もしも私が選ばなかったら―――赤嶺さんに抱かれることを私が選ばなかったなら、結果は違っていたんでしょうか」
その言葉はたしかに私に向けられているはずなのに、独り言のように私の耳には聞こえました。
「違う。そうじゃない・・・そうじゃないんだ」
答える私の言葉も、まるで独り言のようでした。
妻は立ち上がりました。
私は視線を上げられずに、妻の浴衣の裾が揺れる様を見ていました。
妻はそれきり言葉を発しないまま、音を立てずに部屋を出て行きました。
しばらくの後―――
止まっていた呼吸をゆっくり取り戻して、私はがくりと襖に背を預けました。
頭の芯が痺れてしまったようで、手指の一本すらも満足に曲げられないほどの消耗が私の身体の隅々まで行き渡っていました。
照明の光で満たされた部屋にいながら、窓の外に広がる暗い闇のほうがずっと深く感じ取れるようで、降り続く雨までもこの部屋に入り込み、ぼやぼやと私の輪郭を滲ませていくようでした。
私は手元の鞄から煙草を取り出しました。火を点ける途中に、そうか、今は禁煙中だったな、とぼんやり思いました。痺れた脳に怒る妻の顔が浮かび、そのことが妻の不在を感じさせ、最後に私の脳は赤嶺とともにいる妻の姿を思い描きました。
横たわっている、妻の白くなめらかな裸身。
その身体に覆いかぶさっていく、赤嶺の身体―――
私は立ち上がらなければならなかった。立ち上がって、歩いて、赤嶺の部屋まで行かなければ、妻にあんな想いをさせたその犠牲のすべてを無駄にすることになります。
しかし現実の私は、こうして煙草に火を点けるだけで精一杯でした。
やがて、その煙草も灰になりました。
私は襖に背を預けたまま、明るくて暗いこのがらんとした部屋の一部になりました。
瞼の裏に、様々な表情の妻の幻影が揺らめいていました。
どれだけの時間、そうして過ごしていたのでしょうか。
不意に、物音がしてそのほうを向くと、妻が戸を開いて部屋に入ってくるところでした。
妻の姿を目にしてもなお、私はまだ幻影の続きを見ているような気持ちでした。
―――それくらい、妻の姿はいつもと違っていたのです。
しなやかに着こなした浴衣に乱れはなく、緩い曲線を描く髪も出て行ったときと同じように後ろで一本にくくられているのに。
先ほどまで蒼褪めていた妻の顔は朱に染まり、瞳は潤沢にうるんでいて、足取りは酔ったようにふらついていました。
気がつかないうちに、私は立ち上がっていました。
定まらない足取りのまま、妻はまっすぐ私のほうに向かってきましたが、その視界は私の存在を捉えていませんでした。私は怯えに似たものすら感じながら、妻に近寄り、その肢体を抱きしめました。妻は一瞬小さく声を上げ、探るような手つきで私の背を触った後で、今度は力いっぱい私にすがりついてきました。
息を呑む想いで私はその火照った肌に触れ、いつもより豊かに張っている肉の感触に妻でありながら妻でないものを抱いているような心地を感じながら、そのまま引きずられるようにして彼方へ飛び去っていきました。
Mってすげーなーとしか言えん。
極論、浮気されても振られても興奮出来るんだから、
幸せなんだろーなー。。