[3950] 本当の妻 投稿者:加藤 投稿日:2006/01/26(Thu) 20:35
私と妻が付き合う事になった切欠は、信じられない事に妻の方から「今度、食事にでも誘
って頂けませんか」と声を掛けられた事だった。
それは私だけではなくて、他の社員達にも信じ難い出来事だったと思う。
何故なら妻は、身長が170センチある髪の長いモデルのような美人で、下請け会社の社
長の娘だったから。
会社ではマドンナ的存在で、男子社員の憧れの的だったが、隙のない妻には誰も声を掛け
る事すら出来なかった。
「香織君と付き合っているそうだが、君はもう34だろ?早いもので香織君も28になっ
たと聞いたが、ここらでそろそろ決めたらどうかね。近々私は常務になる。そうなれば、
いずれ君を課長にして、ゆくゆくは部長に推薦しようとも思っている。その為にも早く身
を固め、家庭を持って落ち着け」
私に目を掛けてくれていた高橋部長にそう言われ、とんとん拍子で話は進み、付き合い始
めて僅か半年で、部長夫妻の仲人で結婚。
2年後には子供も生まれ、その息子も早2才。
子供は可愛い盛りで、妻は相変わらず綺麗で優しい。
妻には何の不満もないが、ただ1つ有るとすれば、頻繁に実家に帰る事ぐらい。
しかしそれは私の出張が多くて、その間帰っているだけで、私が帰る前には戻って来てい
て、必ず息子と笑顔で迎えてくれるので、不満などと言うものでは無い。
この世の春とは正にこの事で、私は幸せの絶頂にあった。
そんなある日、退職してライバル会社に入った元総務部長に、出張先の会社で偶然会う。
この人は、私達の仲人をしてくれた当時部長で今では常務の高橋常務と同期で、常に出世
を争うライバルだった。
私が直接聞いた訳ではないが、退職した理由が「高橋の下でなんか働けるか」らしい。
「君は課長になったらしいな。おめでとう」
話を聞くと、偶然同じホテルに泊まっていた。
「狭い業界だから得意先で会っても不思議ではないが、ホテルまで一緒とは奇遇だ。これ
も何かの縁だから、今夜一杯どうだ?」
我社の事を探りたいのかとも思ったが、直属では無かったにしろ、仮にも元上司だった人
の誘いは断り難く、私達はホテルの側の居酒屋にいた。
「課長自ら商談か?」
確かに課長になってから、出張先も規模の大きな会社だけに成り、出張の回数も減ったが、
それでも月に2回は3・4日の出張が有った。
「課長と言っても、会社で座ってばかりいられないのは、伊藤部長もよくご存知じゃない
ですか。それよりも、こちらは私のような課長で、そちらは伊藤部長に出て来られては、
勝ち目が無くなってしまいます」
「いや、部長と言っても、会社の規模が天と地ほど違う」
最初は仕事の話ばかりだったが、酔いが回ると伊藤部長は、とんでもない事を言いだした。
「君は出世間違い無しだから、そう躍起に成らなくても良いだろ。少しぐらい手加減して
くれよ」
「いいえ、営業なんて常に競争ですから、うかうかしていたら降格が有るかも知れません」
「いや、君は勝ち組だ。高橋に付いて、香織君を嫁に貰った時点で、会社では勝ち組だ」
私は、これはしっかり者の妻を貰ったから出世出来るという、妻に対しての褒め言葉だと
受け取ってしまい、お世辞だとしても嬉しかったが、次の言葉で皮肉だと知る。
「ただ、男としてはどうだろう。男としては勝ち組どころか、最低な男に成り下がってし
まったな」
流石に、酔っている元上司でも頭に血が上る。
「どう言う意味です?いくらお世話に成った伊藤部長でも、その言い方は許せない」
「だって、そうだろ。君は上司の愛人を引き受けて、プライドを捨てて出世をとった」
私は伊藤部長の言う意味が、すぐには理解出来なかった。
「まさか・・・・知らなかったと言う事は・・・・・・・・・・・・」
当時、高橋部長は平の部長で、伊藤部長には取締役が付いていた。
取締役会議で、自分よりも格下の高橋部長を常務にという話が出た時「社内に愛人がいる
様な人間を常務にしても良いのか」と暴露した。
しかし、それは個人の問題で会社には関係ないと跳ね除けられ、身辺を綺麗にする事とい
う条件が付け加えられるに終わる。
「取締役の何人かは既に知っていたので、高橋が先に手を回していたのさ。重役以外は知
らないはずだが、まさか当の君まで知らなかったとは・・・・・・・・・・」
高橋常務は昔から腰も低くて物腰も柔らかく、いつも笑顔を絶やさない優しい人なので、
私には到底信じる事が出来ない。
しかし伊藤部長も、気性の激しいところは有るが、男気のある嘘の無い人だという印象が
あり、私は何が本当なのか分からずに戸惑うばかりだったが、出張から家に戻ると、いつ
もの様に妻と息子が笑顔で出迎えてくれた。
「変わった事は無かったか?」
伊藤部長に言われた事が気になっていたが、間違っていた場合、これほど妻を侮辱する話
は無いので、どうしても切り出せない。
「いつものように、実家に行かせて頂きました」
妻の笑顔を見ていると、やはり妻を信じようと思う。