桐 10/8(月) 22:19:13 No.20071008221913 削除
横浜を出るころは雲が多かった空も、K温泉に着いた時はすっかり晴れ上がっていた。紅葉にはまだ早いが、かえってそれだけに有名な温泉地とはいえ降車客も多くない。急に思い立った旅行だったが、希望の宿も問題なく予約することが出来た。
「気持ちいいわ、これこそ秋晴れって感じですね」
駅前に降り立つと、オレンジ色のニットのトップに白いパンツ姿の江美子が両手を上げて大きく伸びをする。明るい栗色に染めたウェーブのかかった髪が陽光にきらめくのを隆一はまぶしげに見つめる。
隆一は地面に置いた江美子のバッグを空いた手で持つと、タクシー乗り場に向かう。
「あん……自分の荷物は自分で持ちますよ」
江美子が小走りで隆一を追いかける。隆一はドアを開いたまま客を待っている数台のタクシーのうち、先頭の車に乗り込むと「Tホテル」と行き先を告げる。
「チェックインにはまだ早いから、ホテルに荷物を置いて少しその辺りを散歩をしよう」
「そうですね、2人とも日頃運動不足ですから」
江美子がにっこりと笑うのがドアミラーに写る。
「江美子」
「何ですか?」
「その丁寧語はやめろ」
「だって……習慣になっていますから、すぐには直りませんわ」
江美子は少し困ったような顔をする。
隆一と江美子が出会ったのは今から2年前、隆一が37歳、麻里が31歳のころである。大手都市銀行の一角、首都銀行の審査1部に審査役として配属された隆一は、そこの企画グループに所属していた古村江美子と出会った。
一度結婚生活に破れた経験のある隆一は、女性と付き合うことについては臆病になっていた。しかし、江美の育ちのよさから来る天然のアプローチが次第に隆一の心を動かし、一年後に2人は結婚した。
首都銀行は同じ職場の行員同士が結婚すると、どちらか一方は転勤しなければならない内規がある。このため江美はターミナル店舗である渋谷支店の営業部に異動となり、法人営業の仕事に就いている。
タクシーは15分もしないうちにホテルにつく。フロントに荷物を預けて身軽になった隆一と江美子は、再び外へ出る。
「いい眺めですわ」
くっきりとした山並みを見ながら、江美子が溜息をつくように言う。色づき出した木々が美しいまだら模様を作っている。
「理穂ちゃんも一緒だったら良かったですね」
江美子の視線に少し翳りが差したのに隆一は気づく。
「今回の旅行は理穂が勧めてくれたんだ。その気持ちをありがたく受け取っておこう」
「そうですね」
隆一には先妻との間に出来た娘、理穂がいる。5年前に先妻と離婚したとき、小学3年だった理穂にはまだ母親が必要だと隆一は考えたのだが、理穂は母親と暮らすことをはっきりと拒絶した。そればかりでなく、理穂はずっと母親との面会も拒んできた。隆一は娘に根気強く、母親と会うことを奨めたのだが、理穂は頑として受け付けなかった。
江美子と結婚が決まってからは、隆一も娘と母親を会わせることを諦めるようになった。隆一は江美子が理穂とすぐに家族同様にはなれないかもしれないが、いずれはよき相談相手にはなれるのではないかと期待した。そのためには理穂に、母親と会わせることを奨めるのはむしろ弊害になるのではないかと思ったのである。
隆一が江美子と結婚したいということを話したとき、理穂は少しショックを受けたような顔をしたがすぐに平気な顔をして、「良かったじゃない、お父さん」と微笑した。3人で暮らすようになってからも、理穂は江美子に対して屈託のない態度を示したが、それは隆一には、まるで年の離れた姉に対するようなものに見えた。
理穂が江美子のことを母と呼ぶ日が来るのかどうか、隆一には分からない。継母と娘の葛藤といったことは一昔前のドラマや小説ではよく聞くはなしだが、離婚がごく当たり前になった現在ではさほど珍しいものではないのかもしれない。今年中2になった理穂が江美子のことをどう位置付けるのかは理穂自身に任せようと、隆一は考えていた。