BJ 7/16(月) 06:31:04 No.20070716063104 削除
私の好きな夏目漱石に、「門」という小説があります。
「門」の主人公は宗助という男です。親友を裏切り、その妻であった御米と結ばれた彼は、その後もずっと罪の意識を背負いながら、御米とともに暮らしています。社会から切り離されたような、お互いにお互いしかいない夫婦の淋しい日常、哀しみに満ちたいたわりあいが描かれているあの作品を、私は時折思い出します。
あの夫妻の淋しさ、それと裏返しの結びつきの強さは、彼らの背負う過去からきていることは疑い得ません。
彼らの裏切り、彼らの罪が、二人を心身ともに結びつけ、或いは縛りつけているのです。
―――そう。
あの濃密な関係の奥には、暗い秘密が潜んでいるのです。
「あなた、起きてください。もう朝ですよ」
遠慮がちに揺り動かす手で、その朝、私は目覚めました。
見ると、そこにはいつものように妻がいます。寝巻き姿の私と違い、すっかり普段着に着替えた格好で。
「もう朝か。昨夜はあまり寝た気がしないな」
私が言うと、妻はちょっと瞳を逸らしました。あまり感情を表に出さない妻ですが、さすがに付き合いも深まった今は、微妙な表情の変化で彼女が何を考えているのか分かるようになっています。
つまり、今、妻は恥ずかしがっているのです。
「それに腰も痛い。やっぱりこの年で無理はするものじゃないな。瑞希はどうだ?」
瑞希というのは妻の名です。
「私は別に」
小さな声で言葉少なに答え、妻は私に背を向けました。
「早く起きて顔を洗ってください。そんな顔をして行ったら、会社の女の子に笑われますよ」
後ろで一本にくくった長い髪が朝の光に揺れているのを見ながら、私は昨夜抱いた妻の身体の感触を思い出していました。
「今日は遅くなりますか?」
「いや、何も予定はないから、いつもの時間に帰れると思う」
「そうですか」
人によっては素っ気無く思うだろう妻の受け答えは、昔からずっと変わらないものです。結婚した当初はそんな妻の態度によそよそしさを感じてもどかしく思ったものですが、今ではもう馴れてしまいました。
私は玄関口に立って、ぼんやりと見送る妻の顔を見つめました。
妻はちょっと動揺したように、視線を逸らします。長い時間ひとと見つめあっていられないのも、また昔からのことです。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
私は妻の声に見送られ、外の世界へ歩き出しました。
すでに初夏の暑さを滲ませた日差しが、駅へと急ぐ私の背中に突き刺さるようでした。
その日は午後三時をまわった頃にようやく外回りから解放され、私はべとべととまとわりついてくる汗まみれのシャツを不快に思いながら、目についた喫茶店に避難しました。
アイスコーヒーを注文し、ハンカチで汗を拭いつつ、クーラーの効いた店内にほっとした想いを味わいました。まったくその日は殺人的な暑さだったのです。
あまり流行らない店なのか客のまばらな店内に、懐かしいビーチ・ボーイズのサーフィンUSAが流れています。あの陽気なコーラスを聴くと、ああまた今年も夏がやってきたんだなぁという気がします。
やがて運ばれてきたアイスコーヒーの、水滴で濡れた涼しげなグラスを見つめながら、私はキャビンに火を点け、深く吸い込みます。
そう、夏はやってくるのです。
今年も。
私は妻の顔を思い浮かべました。今年の夏休暇にはまた彼女を連れてどこかへ旅行にでもいくのだろうか、と他人事のように考えて、ふと暗いものが心の隙間に差し込むのを私は感じました。
もちろん、妻を外へ遊びに連れて行くのが厭なわけではありません。それどころか、妻が生活に必要な場以外ほとんど出歩かないことを、私は気に病んでいました。妻はまだ三十半ばと若く、子育ての忙しさもないのに、彼女の日常は私と私との生活に終始していて、あまりにも閉じられてしまっているように感じられるのです。それこそ、「門」の御米のように。
だから、出来るだけ妻を外へ連れ出してもっと楽しませてやりたい、人生の喜びを味あわせてやりたいというのは、私の望みでもあったのですが、それとは別に胸の奥で去年の夏の出来事が意識すまいとしても浮かび上がってきて、私を動揺させるのでした。
それはあの奥飛騨の宿での出来事―――
私たちの―――秘密。
煙草を揉み消した私は、会社に戻るため、店を出て暑い日の光の下へゆっくりと歩き出ました。にわかに滲みだす額の汗をシャツの袖で拭いながら、ふと見上げると、ぽっかりとした入道雲が青い空に浮かんでいました。