七塚 10/2(月) 22:31:57 No.20061002223157 削除
顔を上げた千鶴は何かを言おうとして言葉にならない様子だった。
その叙情的な瞳から一筋の涙が伝い落ちるのを、時雄は見た。
「ごめんなさい」
しかし、結局千鶴の口から出た言葉はそれだけだった。
「ごめんなさい、か・・・」
時雄は呟くように言い、唇を強く噛み締めた。
いつの間にか、七年の歳月を飛び越えて、あの日あのとき感じた様々な感情が胸に呼び起こされてきたようだった。
目の前の千鶴は顔をうつむけて、しのび泣いている。
その様子を見つめる自らの胸に去来する激しい愛憎の念が、今でも強くこの女に結びついていることを時雄は痛みとともに自覚した。
「・・・もういいよ」
時雄は短く言った。
「そのかわりといっては何だが、これだけは聞かせて欲しい。君の、正直な気持ちを」
千鶴が顔をあげた。
「君は今、幸せなのか?」
涙で潤んだ瞳が、驚いたように見開かれた。
「・・・それは」
戸惑ったような千鶴の声。
いくら正直な気持ちを聞かせて欲しい、と言われたところで、千鶴ならそれよりもむしろ時雄の気持ちを傷つけない答えを選ぶかもしれない。時雄の知っている千鶴はそういう女だった。
だからこそ、いま彼女は迷っている。どう答えるのが一番よいのかが分からなくて。分かるはずなどない。時雄自身にも自分の気持ちが分からなかった。
時雄はその夜、どこをどういうふうに自宅まで帰ったのか覚えていない。
夜の風が冷たかったことだけは覚えている。
季節はもう確かに秋なのだ。
せっかくの休日だったが、何もする気になれなかった。朝食を作る気にすらなれなくて、コーヒーだけですませた。
煙草を咥えると、胃がきりきりと痛んだ。
紫煙の向こうに昨夜の千鶴の面影がよぎる。
「幸せ―――です」
最後に彼女の口から出た一言。その一言がいつまでも、時雄の耳から離れなかった。
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