七塚 10/3(火) 23:47:03 No.20061003234703 削除
時雄は大学の美術サークルで千鶴と知り合った。時雄が大学の三回生となった春のことだ。
新入生歓迎コンパのとき、恥ずかしそうに自己紹介をする千鶴を見て、可愛い子が入ってきたなと思ったものの、それ以上の感想を最初は持たなかった。
印象が変わったのは、彼女の絵を見てからだった。
千鶴の絵は花や動物や周囲の風景といった日常の風景を描くだけで、特に奇をてらったところもなく、地味といえば地味な画風だった。しかし、そうした日常の小さなものにそそぐ視線の温かさが感じられ、見ているだけで心が和むような絵であった。自己主張ばかり激しくて内容のない絵から抜け出せないでいた時雄には、千鶴の素朴で温かみのある絵は新鮮だった。
当時、千鶴のことを狙っていると噂された男が、サークルの中にいた。時雄にとっては先輩に当たる人間だった。
その先輩は木崎という男だった。
時雄は木崎が苦手だった。はっきりいって嫌いなタイプだった。
木崎はアートかぶれの人間にありがちな、何に対しても斜に構える男だった。誰でも、何にでも批判的であれば優位に立てると思い込んでいるような木崎の人間性が、時雄にはひどく子供っぽいものに思えて厭だった。
その木崎が千鶴を狙っていると聞いて、時雄は不安になった。
千鶴は見るからに押しが弱そうな女だった。木崎のようなタイプの男が強引に迫れば、好き嫌いにかかわらず押しきられてしまいそうだと思った。
木崎が千鶴に話しかけている姿を部室で見かけるたび、時雄の胸は騒いだ。出来ることならそばに行って、二人の会話に割って入りたいくらいだった。実際、時雄は何度もそうして木崎から白い目で見られた。
その頃にはすっかり千鶴のことが好きになっていたのだ。彼女を誰にも渡したくないと時雄は思った。
だから、時雄の告白に千鶴が「私も好きでした」と言ってくれたときは、天にも昇るような気持ちだった。
一方で鳶に油揚げを攫われた形になった木崎からは、千鶴ともどもことあるごとに嫌味を言われた。攫った男が後輩だったことも、木崎のプライドを刺激したのだろう。部室で千鶴と話しているだけで、
「いちゃついてんじゃねえよ」
と言われたようなときには、本当に殴ってやろうかと思うくらいに腹が立ったものだ。
大学の美術サークルでの四年間は、千鶴と出会った場所でもあり、時雄の人生の中でも幸福な思い出のひとつだったが、唯一、木崎のことだけが厭な記憶である。
何ぞ知らん、まさかその「厭な記憶」が壁にかけられた肖像画の人物が抜け出してくるように、再び時雄の人生の前に現れようとは。
千鶴と木崎はいつ再会し、いつから秘密の関係を持つようになったのだろう。
はっきりしたところは分からない。だが思い当たるのは、あの悪夢の日の数ヶ月前に美術サークルの同窓会があったのだった。
仕事で出張に行っていた時雄は出席していない。千鶴だけが行った。
翌日、自宅へ帰ってきた時雄を出迎えた千鶴の様子には、特に変わったところはなかったように思う。
いや、後からそう考えているだけで、実際は違ったのかもしれない。時雄は仕事にかまけて家庭を顧みる余裕のない迂闊な夫だったから、妻の些細な変化や心の動揺を察することも出来なかったのかもしれない。
千鶴はたとえ悩みがあっても、容易にそれを口に出すタイプではない。むしろ潰れるまで抱え込んでしまう女だ。
あの頃、千鶴と木崎の間に何があったのかは、今でも分からない。
だが、もしも千鶴が何か葛藤を抱えていて、自分に対してSOSのサインを送っていたとしたら―――
そのサインに自分が気づくことすら出来ずにいたとしたら―――
いくら後悔しても足りない。
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