七塚 10/4(水) 18:53:30 No.20061004185330 削除
千鶴と再会した次の週の金曜の夜、時雄はまたあのバーのほうへ足を向けた。
もう会わないほうがお互いにとっていいと分かってはいても、そうせずにはいられなかったのだ。
たとえ千鶴が言った「幸せです」の一言が真実であろうと、なかろうと、時雄の存在は今の彼女にとっては重荷でしかなかろう。
それならば、自分にとって今の千鶴はどういう存在なのか――。
それもはっきりとは分からない。
彼女は時雄にとって、真剣に愛した最初で最後の女だった。
同時に、どんな事情があるにせよ、時雄を手ひどく裏切り、彼の人生を狂わせた女だった。
出会って、やがて結婚して。千鶴と暮らした数年間は、切ない幸福の幻影と、やりきれない空しさとなって、時雄の脳裏に刻み込まれていた。
あの頃、仕事にかまけていたとはいえ、時雄の気持ちが千鶴から離れたことは一度もなかった。それだけは自信を持って言える。
もともと美術に関心のあった時雄は、望んでいたデザイン系の仕事に就くことが出来て有頂天だった。仕事が面白くて面白くて、仕方なかった。早く一人前になって、誰からも認められる男になりたいという希望に燃えていた。
誰からも―――いや、そうではない。誰よりも何よりも、千鶴に認めて欲しかった。彼女にとって、誇れるような夫でありたかった。
千鶴を幸せにしたかった。幸せにする自信もあった。
だが―――その夢は破れた。
あの悪夢の日以降、時雄は荒れた。自分を裏切った千鶴が憎くて憎くて仕方なかった。
最も愛し、最も信頼していた人間に裏切られる―――。
言葉にすれば簡単に表現できるそんな事実が、これほど辛いものだとは思わなかった。
時雄は千鶴を責めた。千鶴は泣いて謝るばかりで一切言い訳はしなかったが、たとえ言い訳したとしても、当時の時雄にそれを聞く余裕はなかっただろう。その頃、彼は完全にパニック状態だった。
千鶴は離婚を望んだ。
時雄は最初、それを拒否した。とんでもない、と思った。なぜ、自分は何もしていないのに、と思うと、怒りばかりがむくむくと湧いてきて、時雄はますます荒れた。
しかし、その一方で、時雄の中のもう一人の人間は、冷たい現実を受け入れ始めていた。
たとえ、このままの状態を続けていたところで、事態は悪くなる一方だ。
そう思えるくらい、時雄は疲れ果てていたのかもしれない。
それからの数週間は、幸福というものは実に呆気なく崩れていくものだということを確認するような日々だった。
やがて、二人は別れた。
しばらくは呆然と日を送った。
仕事を終え、家に帰ってもそこに妻はいない。あるのは空虚な暗闇と、やりきれない喪失感。
それが唯一の現実だった。とても信じられない、信じたくない現実だった。
あえて心に鍵をかけて思い出さないようにはしていたが、やはり想うことはいなくなった千鶴のことばかりだった。
千鶴のことを想うたび、激しい憎しみと、そしてそれを上回る思慕の念が蘇った。
あの日、あのとき、自分の傍らで笑っていた千鶴の幻影が、瞳に焼きついて離れない。
なぜ、どうしてこうなってしまったのか。
思い出はやがて後悔へと変わり、憎しみは自責の念へと変わっていった。
そんなふうに思う自分がもどかしく、また不思議でもあった。
今なら分かる。
あの頃、千鶴に出て行かれた時雄は寂しかった。どうしようもなく寂しかったのだ。
千鶴がホステスを勤めるバーのあるビルの手前に来たとき、時雄は前を歩く男に目をとめた。
見覚えがある、というレベルではない。
老けてはいるが、見間違えるはずもないあの顔。
じわっと脇に厭な汗をかいた。
木崎だ。
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