七塚 10/5(木) 00:24:04 No.20061005002404 削除
木崎は雑居ビルの中へ入っていった。
行き先はもちろん、千鶴のいるバーだろう。
時雄はビルの手前の道路で立ちすくんでいた。
まだ胸がどくどくと高鳴っている。
濡れ雑巾で心臓を鷲づかみにされたような衝撃だった。
千鶴を間に挟んでいざこざのあった大学時代から数年後、また同じく千鶴を間に挟んで起こったあの出来事の際、時雄は木崎に久々に再会した。それからもすでに七年が経つ。
両者の立場はあの七年前から完全に入れ替わっている。
今では木崎が千鶴の夫なのだ。
頭では分かっていたが、実際に木崎の姿を目にすると、その事実がひどく耐え難いものに思えた。
七年前。
久々に再会したときも、木崎は変わらず厭な奴だった。
自分が寝取った女の夫である時雄に対して、一見すまなそうにし、口では謝罪しながらも、内心では時雄のことを見下していることが見え見えの態度が我慢ならなかった。
それに加えて、木崎はこの期に及んでも時雄に対して先輩面を崩さなかった。
話し合いのため、差し向かいで話していたとき、激昂した時雄が木崎の名を呼び捨てにしたことがあった。
「てめえ、誰に向かって話してる。俺は先輩だぞ」
木崎は顔を真っ赤にして怒った。学生時代そのままの、子供じみた口調で。
それを見て、時雄は気が抜けた。空しさすら感じた。
自分はなんというつまらない男を相手にしているのだろう。
ひとの妻を寝取っておいて、この男は相手に対する誠意を見せるどころか、まだ大学時代の先輩後輩などという形式にこだわっている。
くだらなすぎて、吐き気がした。怒鳴る気力すら萎えてしまった。
時雄はバーの入り口が見える裏路地に立ち尽くしたまま、そんな過去の記憶を回想していた。
木崎に関しては厭な記憶しかない。
この七年間、千鶴のことを思い出すことはよくあっても、木崎については滅多になかった。
木崎の存在は時雄にとってあまりにも忌まわしい記憶だった。無意識のうちに心が彼を思い返すことを拒否していたのだろう。
時雄はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。このところ、あからさまに喫煙量が増えている。
(それにしても・・・)
木崎はなぜ千鶴―――妻がホステスをしているバーなどへ行ったのだろう。
そもそも、三十半ばを過ぎた妻にホステスなどをやらせている男の神経が分からない。よほど家計が逼迫しているのだろうか。木崎自身はどうなのだ。きちんとした職で働いているのか。
考えれば考えるほど、苛々した。
ふっと時雄は自嘲の笑みを浮かべた。
いったい自分は何をしているのか。寝取られた女房と寝取った男を前にして、あれこれと想像を巡らしながら暗い路地に突っ立っている元夫。どこの間抜けだ?そいつは。
煙草を踏み消す。もう帰ろう。
すべては―――終わったことだ。
そのときだった。
バーの入り口のドアが開いて、サラリーマン風の男が出てきた。 そして、そのすぐ後に今度は木崎が出てきた。入店してから、ものの三十分も経っていない。
時雄は思わず、近くの家の駐車場の影に身をひそめた。
サラリーマン風の男が目の前を通り過ぎかける。
「待ってください」
木崎の声がした。
サラリーマン風の男はそのまま行こうとしたが、何度も呼びかけられて振り向いた。面食らった様子だった。
「私ですか」
「そうです、そうです」
木崎の声。
「何か用ですか?」
サラリーマン風の男は警戒した様子で、それでもその場に足をとめた。明らかにふたりは旧知の仲ではない。
「ちょっとお話があります。いえ、わるい話じゃありませんし、危ない話でもありません」
木崎の口調はまさに悪徳商人のそれだった。どこの世界にそんな口上で安心する人間がいるだろう。
時雄のいる場所からは木崎の姿は見えない。
「コレですよ、コレ。女の話です」
「そんな話に用はない」
「つれないなー、話だけでも聞いてくださいよ。ナニ、女といっても見知らぬ女じゃない。あなたがさっきあのバーで話していた女です。ほら、ホステスにしてはちょっと年増だが、なかなか美形のあの女」
時雄は思わず息を呑んだ。
木崎は明らかに千鶴のことを言っている。
「あの女に興味はありませんか?」
木崎の突拍子もない言葉にサラリーマン風の男は、なんと答えたものかしばし迷っている様子だったが、
「あんた、あの店のものなのか?」
と小さな声で聞いた。
「違います。でも個人的にあの女とは懇意でしてね。あなたがお望みなら、いつでも逢瀬の機会をご用意しますよ」
(いったい、こいつは何を言ってるんだ?)
時雄は呆然となった。
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