七塚 10/15(日) 18:50:00 No.20061015185000 削除
「俺と別れた後―――」
ソファに沈み込みながら、時雄は独りごちるように言った。
「君はどうしていたんだ? 木崎とは・・・」
「木崎とは別れました。あなたという脅しの材料がなくなった後では、もう彼との関係を続ける意味はなくなっていました。その頃の私にとっては、彼はあなたとの関係を破綻させた憎むべき対象でしかありませんでした」
その頃の私にとっては―――。
今は違うということか。
ならばなぜ、いつ木崎は千鶴にとって別の意味を持つ存在になったというのか。
「あなたと別れて、私は大桑にアパートを借りてひとりで暮らしていました。近くのスーパーでパートをしながら、細々と生活していたんです。後悔や慙愧の念は消えないけれど、こうなってしまった以上はもう誰も傷つけず、迷惑もかけずに静かに暮らしていきたいとそればかり願っていました。でもそんなある日、突然母の病気が発見されたんです。血液の悪い病気でした」
「お義母さんが・・・」
千鶴の母親の久恵のことはもちろん、時雄も知っている。久恵は若い頃に夫と別れていて、千鶴と娘一人母一人の生活を送ってきた。それだけに千鶴のことをとても大切にしていて、彼女が時雄と結婚することになったときも、くれぐれも娘をよろしくと何度も頭を下げられたことをを覚えている。
いつもにこにことしていて、仏様のように優しい人だった。
「全然知らなかった・・・」
「母の病気は手術などで治る類のものではないそうです。長期入院して薬物投与を続けながら、経過を見ていくしかない。母は今も入院しています」
悲痛な声で千鶴は語った。
「当時、私はパニックになりました。あなたと別れて、このうえ母までいなくなってしまったら、私は本当に独りぼっちになってしまう。でも、私にはお金がありませんでした。パートの給料くらいでは母の治療費すら満足にまかなえません。私たち母子には頼りになる親戚もいませんでしたし」
「なぜ・・・俺に何も言ってくれなかった」
「あなたには言えなかった。絶対に。どんなことがあっても、あなたにはこれ以上迷惑はかけられなかった」
きっぱりと言った千鶴の言葉に、時雄は絶句した。
「私はパートをやめて、お金になる風俗の店で働き始めました」
「・・・・・・」
「厭な仕事でした。あなたと結婚して幸せに暮らしていたころは、まさか自分がそういうお店で働くことになるとは思ってもいませんでした」
千鶴は広げた自分の掌をじっと見つめていた。
消せない過去を見るように。
「当時、私は人妻のソープ嬢という名目で売り出されていました。冗談みたいな話ですね」
あなたと別れて間もなかった私が―――。
千鶴は言った。
時雄は声もなく、天を仰いだ。
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