七塚 10/18(水) 03:15:48 No.20061018031548 削除
時雄は冷蔵庫から安物のワインを取り出した。
時刻はもう深夜三時を回っていて、明日は休日とはいえ、いまから飲み始めるには遅すぎる時間帯だったが、飲まずにはとてもいられなかった。
それでいて、身体も心もひどく疲れている。
手酌でグラスに酒を注ごうとしたら、千鶴が「私が注ぎます」と言った。時雄は無言でボトルを手渡した。
こぽこぽ、とワインの音だけが室内に響く。
「君はいらないのか」
千鶴は首を振った。
そして、また沈黙。
いったい―――自分は何をすべきなのか。
何を語るべきなのか。
何を想うべきなのか。
そんな思念が川底の水泡のように、意味もなく時雄の頭に溢れていた。だが、その思念を真剣に考える余裕も気力もすでになかった。
暗澹たる気分だけが、泥濘のように時雄の全身にまとわりついていた。
眼前の千鶴は、かつて時雄の妻だった女は、ただ静かに座っている。その顔に過去を語っていた先ほどまでの張りつめた様子はなく、むしろ放心したような表情をしている。
彼女もまた疲れきっているのだ。
過去に、そして現在のこの瞬間に―――。
千鶴の語ったことのすべてを、時雄が理解できたわけではなかった。いや、頭では分かっても、心がそれを受け入れることを拒否していた。
七年前に千鶴が辿った苦しい道のりのことは分かる。夫であった自分がそのときの彼女に何も出来なかったことについては、改めてほぞを噛む思いだ。
だが、たとえいかなる事情があったとしても、千鶴がある瞬間に木崎を受け入れたこと、そのことに間違いはなかったのだった。それから現在に至るまで、たしかに彼女の心の一部分は木崎に占められている。信じられないような途中の経過さえ抜けば、当たり前すぎるほど当たり前の事実。だが、その事実を実際に彼女の口から聞くことは、何にもまして時雄には耐えがたかった。
(馬鹿げた話だ・・・)
ふっと時雄は内心で自分を哂った。七年前、自分の役回りは、誰よりも滑稽なものだった。そして最大の滑稽事は、七年後の今になっても、自分がすすんで最も滑稽な役を引き受けたことだった。哀れな道化師の役を。
なぜだろう。なぜそれでも自分はやめられないのだろう。
いま目の前にいる千鶴は、時雄の知っている千鶴ではない。いや、時雄が彼女のことを真に理解していたことなど、きっと一度もなかったのだろう。時雄は自身の望む女の姿を千鶴に見ていただけなのだ。
ずっと、あまりにも長い間―――。
だから、ふたりが夫婦でなくなったときでさえ、何ひとつ気づくことが出来なかった。
千鶴はきっと知っていた。時雄が自分のことなど少しも分かっていないということを。面と向かってそう言ったとしても、きっと彼女は否定するだろうが。
「今日はもう寝よう。これからのことは明日考えよう」
台所でグラスを片付けている千鶴の背中に、時雄はそう呼びかけた。
「・・・・・」
千鶴は黙って振り返り、時雄を見つめた。翳りを帯びたその瞳が何を想っているのか、時雄には分からない。
「歯磨きは新品のが洗面所にある。ベッドは君が使ってくれていい。俺はソファで寝る」
千鶴の唇がかすかに動いた。
「どうして・・・?」
何に対しての「どうして?」なのか。やはり分からないまま、時雄は口を開いた。
「・・・今回、俺はわけも分からないまま、衝動的に動いてしまった。もしかしたら、いまの君には迷惑なことだったかもしれない」
「迷惑だなんて・・・。ただ・・・どうしてあなたがそこまでしてくれのかが分からなくて・・・。七年前から私こそ迷惑のかけどおしで・・・さっきの話でなおさらそのことが分かったでしょう。それなのになぜ・・・?」
かすれたような千鶴の声だった。
「なぜなのか、俺にも分からない。ただ、あのときの俺は何も出来なかった。そのことで君も、俺も傷ついた。今も後悔してる。だから、今回のことは俺の問題でもあるんだ。俺はもう傷つきたくないし、君にも傷ついて欲しくないんだ。本当にそれだけなんだ」
もう興奮で我を忘れるような真似はしたくなかった。出来うるかぎり穏やかに、時雄は自分の真情を伝えたかった。たとえ自分の見ていたものがすべて幻影だったとしても、いま眼前には彼女がいる。そのことだけは幻ではなかった。
千鶴は黙って、床を見つめていた。
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