七塚 10/20(金) 23:47:25 No.20061020234725 削除
千鶴はきっと木崎のもとにいる。千鶴を救うためにも、いま直面している問題をすべて解決するためにも、木崎を見つけ出さなくてはならない。
だが、木崎が現在どこで暮らしているか、時雄は知らない。
可能性は低いが、かつての美術サークルの仲間に聞けば、知っている者がいるかもしれない。とはいえ、そもそも時雄自身がもはや彼らとの関わりを断ってしまっていた。連絡先の分かる者がいないではないが、もしその相手が時雄たちの間にあったいざこざを噂で聞いていて、現在では木崎が千鶴と再婚していることを知っていたとしたら。木崎の現住所を聞く時雄の意図を、きっといぶかしむことだろう。その場合、相手になんと説明すればよいのか、時雄には分からなかった。
昨夜、あの乱闘の後で倒れた木崎はどうしただろう。自分から警察に行くような真似はすまい。喧嘩の原因を聞かれたら、自分もただではすまないからだ。そもそも満足に動けたかどうかすら怪しい。異変を聞きつけた第三者が、倒れている木崎を見つけ、救急車を呼んだ可能性はある。もしそんなことがあったとしたら、後になって事情を聞きに警察がやってくるかもしれない。そうなったとしても、木崎は真実を話さないだろう。暴漢に遭ったとでも言うかもしれない。たとえ木崎が真実を話したとして、警察が時雄のもとへやってくるような事態になったとしても、それはそれでいい。千鶴を木崎のもとから引き離す糸口がつかめる。勤め人としての時雄の経歴に傷がつき、最悪辞めることになるかもしれないが、そうなったらなったでかまわない。覚悟は出来ている。
あれこれと考えたが、具体的な行動を思いつかないままに、時雄は千鶴の働くバーの前まで行った。結局のところ、さしあたっての手がかりはこの店しかない。今夜、千鶴がこの店に来る可能性は低いだろうと思いつつ、開店時間を待たずにバーの戸を叩いた。
まだ店を開けてもいないのにやってきた客に、バーテンは驚いた顔をしたが、すぐにその客が昨夜店のホステスを連れ去った男だと気づいたらしかった。
「ちょっとあんた、昨夜のあれはどういうつもりだ」
中年の体格のいいバーテンは、そう言って時雄を睨んだ。返事次第によってはただじゃおかないという風情だ。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
時雄は深々と頭を下げて謝罪しつつ、店内に千鶴がいないことを確認した。店にはこのバーテンの男しかいなかった。
「どうもご迷惑をおかけしました。これはお詫びです。少ないですが受け取ってください」
財布から一万円札を二枚取り出し、バーテンの前に置く。いきなりの時雄の対応に、バーテンは目を白黒させた。
「何がなんだか分からんな。いったいあんたはどこの何者なんだ」
時雄は非礼を詫びた後、改めて名を名乗った。
不機嫌な顔をしたバーテンは、それでも万札に手を伸ばした。その後でまたじろっと時雄を睨んだ。
「で、何?」
「・・・は?」
「だから、あんた、あの女の何?」
「・・・親族です」
返事に苦慮した時雄は、咄嗟にそう答えた。
バーテンは疑わしい目つきで時雄を見た。
「親族だとしてもなんで、店の者に何の断りもなく連れていったわけ? 十代の小娘でもあるまいに」
「緊急の用事があったんです。とにかく気が焦っていて、無礼な真似をしてしまいました。本当に申し訳ありません」
「まったく・・・お客さんがびっくりしていたよ。それでもって今度は電話一本で、『店を辞める』なんて言い出すし」
「え・・・・」
時雄は思わず驚きの声をあげた。
「なんだ、あんた知らないのか。さっき、あの子から電話があって『事情があって、店を辞めなければいけない』とまあいきなりこうきたのさ。昨夜のこともあるから、こっちも怒って怒鳴りつけたら平謝りするばかりで、最後には電話を切っちまった。いい迷惑だよ、ほんと」
「そうですか・・・」
たった一日のうちに、千鶴はこの店を辞める決心をしたのだ。或いは木崎の意向かもしれない。どちらにしてもその意図は分かりきっている。時雄に後を追ってこさせないためだ。
「あの、こちらから彼女に連絡を取れないのでしょうか。住所や電話番号などは」
「うちもいいかげんな店でね。電話番号は分かるが、あの子がどこに住んでるかは知らないんだ。その電話もさっきかけたが、まるでつながらない」
目の前が暗くなる想いで、時雄はバーテンの言葉を聞いた。さしあたっての手がかりが消えてしまった。
「あんたこそ、親族ならなぜ連絡が取れないんだ」
逆にバーテンが聞いてきた。
「実は・・・あの子は私の妹なんですが、若い頃に家出しましてね。実家のほうとは絶縁状態なんですよ。それでいま、父親が病気で危篤状態になっているので、なんとか最期に一目だけでも会わせてやりたいと思い、わずかな手がかりからこの店で働いていることを知って訪ねてきたんですが、昨夜店から連れ出した後で、結局逃げられてしまったんです。私のほうとしても、なんとか連絡を取る手段を探しているんですが・・・」
我ながら苦しい嘘だと時雄は思ったが、バーテンは存外簡単に信じたようだった。
「そうかい。ふん、なんとなく翳のある女だとは思っていたが、そんな事情があったとはね」
「あの、彼女はどういう経緯でこの店に?」
「オーナーの友人の紹介だよ。ホステスとしてはいささかトウがたっているが、あんたの妹さんはあのとおりの美人だしね。うちも人が少なかったから、渡りに舟だったわけ」
「その友人の方の連絡先は分かりますか? ぜひとも教えていただきたいのですが」
「分からないこともないが、そう言われても困るな。オーナーの友人というだけで、私個人の知り合いじゃないから、勝手に連絡先など教えられるはずもない」
時雄は黙って財布を開き、また一万円札を取り出した。
「すみません。本当に困っているんです。どうか教えてください」
バーテンは目の前に置かれた一万円札を見つめていたが、やがて辺りを窺うようにしてその金を懐にしまった。
「待ってな」
声をひそめて短く言い、バーテンは店の奥へ消えて行った。
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