七塚 10/26(木) 19:39:57 No.20061026193957 削除
伊藤と向かい合って、時雄はソファに腰を下ろした。
眼前の伊藤は最初の印象どおり、適当に遊んで適当に老けてきた人生が透けて見えるような、たがのゆるんだ風貌をしていた。肩幅はがっちりとしているが、突き出した太鼓腹が見苦しい。
こんな男が千鶴をいいように弄んでいたかと思うと、腹の底がかっと熱くなるようだが、とりあえずこの場では忘れるしかない。
木崎と千鶴の所在を知ることが何よりも肝心だ。
「まずお聞きしたいのですが、あなたと木崎夫妻はそもそもどういう知り合いなのですか?」
伊藤は上目遣いで探るように時雄を見た。
「どういうって・・・さっきも言ったけど、そんな深い付き合いでもない。ただ、行きつけの飲み屋で知り合って、ときどき連絡をとって遊ぶようになったってくらいかな。だいたいあんたは木崎夫妻というけど、私はあのひとが結婚していたのも知らなかったんだ」
伊藤の言葉にはひっかかるものがあった。
「あなたは木崎さんとこの写真の女性が結婚されていることをご存じなかったのですか?」
この写真の女性、と言ったとき、伊藤の顔がわずかに動揺した。
「私は聞いていないよ。最初に会ったとき――これは二年くらい前のことだが――そのひとは私に「紙屋千鶴です」と名乗っただけで、それ以上のことは何も言わなかった。木崎さんも結婚してるなんて言わなかった。もちろん最初からふたりがただならぬ関係だということは分かっていたが、結婚していたなんて初耳だ」
これは―――どういうことなのだろうか。
紙屋は千鶴の旧姓だ。時雄と別れて間もない頃なら、千鶴が旧姓を名乗っているのは当たり前だが、伊藤の話はつい二年前の話なのである。普通に考えれば、そのときはもう木崎と籍を入れていておかしくない。すでに籍を入れていたなら、わざわざ旧姓を名乗る理由が分からない。
もちろん、その後に籍を入れたという可能性もあるが、そうだとしても、友人の伊藤でさえ知らないとはどういうことか。
よくよく考えてみれば、千鶴が木崎と再婚しているという話は、千鶴の口から聞いただけである。木崎本人からもそんな話は聞いていない。もっとも、木崎とはあまり話を出来る状況ではなかったが。
ふと心に生まれた動揺で時雄が黙っていると、伊藤が、
「あのふたりがまともじゃないということは分かっていたけど、まさか夫婦だったとはね。いよいよイカれたカップルだ」
と呟いた。
「どういうことですか?」
「いや・・・あんな写真を見られているんじゃ説得力はないだろうが、私から見てもあのふたりはおかしかったよ。変態的っていうのかな。・・・ところであの写真、後で返して貰えるんだろうね。あんなのが出回ってると思ったら、おちおち表にも出られない」
時雄はにこりともせず、「続きを聞かせてください」とだけ言った。伊藤は少しむっとしたようだったが、諦めたようにまた口を開いた。
「最初に彼らと会ったのはある飲み屋でね。私はそこの常連だったから、ちょくちょく行っていた。で、あるとき、ふと気づいたら、私と同じように、よく来る男女二人連れの女のほうがかなりの美人だということに気づいたんだな。男のほうは、木崎さんには悪いが、たいして風采のあがらない、貧相な感じだったから、面白い組み合わせだなと思っていた。
やがてその店に行って、そのカップルを見かけるたび、意識してそのほうを見るようになった。そうして見ていると、やっぱりおかしい。女のほうはおとなしめな顔で、化粧だってそんなにしていないのに、やたら派手というか、露出の多い服を着ている。そう若くもないのにね。で、店で並んで飲みながら、男のほうはやたらと女にちょっかいをかける。キスをしたり、尻をさすったり、ひどいときなんか胸元に手を入れたりしているんだな。女のほうはいかにも恥ずかしそうに形だけ抗っているようだが、結局は抵抗らしい抵抗もしないでなすがままになっている」
そのときのことを思い出して語る伊藤の顔には、はっきりと好色な笑みが浮かんでいた。時雄は胸糞がわるくなった。
「そんな話はいい。とにかく、あなたはその店で木崎と知り合ったんですね」
「そう。木崎さんの狼藉があんまりひどいんで、店でもそろそろ話題になっていたころだったな。ちょうど小便に立ったとき、木崎さんがいたんだ。『あなたたちがあんまり派手にやってるもんで、店の者も客もびっくりしてますよ』って私から話しかけたんだ。私の言葉に木崎さんはただへらへら笑っていた。そのときから、店で会うと挨拶くらいするようになったんだ」
「・・・いつから本格的に親しくなったんですか?」
時雄が問うと、伊藤はまた下卑た笑いを浮かべた。
「それが今から思い返せばとんだ笑い話でね。あれは冬の頃だったが、ふたりがまた連れ立ってやって来たんだ。たまたま店が混んでいて、私はひとりで飲んでたんだが、木崎さんが『こちらのテーブルにご一緒してよろしいですか』と聞いてきたから、いいよと答えた。そのとき、改めて真近から女を見たんだが、本当にいい女でね。でも、その日は黒いレザーコート一枚を羽織って、店に入っても脱ごうとしないんだ。私ともろくろく目を合わさず終始うつむいているし、寒いのに額にはうっすらと汗が浮かんでいた。どう見ても普通な様子じゃないんだね。
私は気になって、『どこか具合がわるいのですか?』と聞いた。それを聞くと、木崎さんはなぜか笑った。おかしくてたまらないという様子だった。女のほうはますます縮こまっている。私は何がなんだか分からないし、どうも馬鹿にされたふうだったから、不機嫌な顔をした。そしたら木崎さんが女の耳に何か囁いたんだ。女の様子は普通じゃなかったから、私はこの女は耳が聞こえにくいのだろうかなどと思った」
「・・・・・・」
「木崎さんに何か言われて、女のほうは小さくかぶりを振った。瞳が潤んでいて、それがなんとも蟲惑的に見えた。あの女はいつもそんな瞳をしていたね。困っているような、戸惑ったような、潤んだ瞳。それがまたなんともそそるんだよ」
話に興がのってきたらしく、伊藤は身振り手振りも交えながらいやらしい口調で語る。
伊藤の口に出した『あの女』という呼称自体、この男が千鶴に対して抱いていた感情を如実にあらわしていた。殴りつけたくなるほどの怒りを覚えながらも、時雄の脳裏には一昨日に見た千鶴の瞳がよぎっている。
あのときも、千鶴の瞳は潤んでいた―――。
時雄にとっては、その瞳の色は蟲惑というよりも、哀切の念を激しく呼び起こすものだったが。
時雄の感傷など知るはずもなく、伊藤は滔々と話を続ける。
「木崎さんに再三何か言われて、女はしばらくそうして困っていたが、やがて私のほうを見た。背筋がぞっとするような艶っぽい目だった。それから女は顔を伏せて、静かにコートの前を開いた」
思わせぶりな口調で言葉を切って、伊藤は時雄を見た。時雄は思わずその顔に罵声を浴びせてやりたくなったが、そうする前に伊藤が口に出した言葉のほうに衝撃を受けた。
「驚いたねえ。コートの下に女は何も着てなかった。真っ裸さ。ちょっと開いただけで、女はすぐに身体を隠してしまったが、おっぱいもあそこの毛もはっきり見えたよ」
世の中には本当に変態っているものなんだな。
そう言って、伊藤はまた下卑た笑みを浮かべた。
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