七塚 10/30(月) 22:05:16 No.20061030220516 削除
過去を振り返ることが嫌いだった。
後ろ向きに生きていくことは何よりも耐えがたかった。
かつて、時雄は確かにそんなタイプの人間だった。
辛いときも、哀しいときも、そのままの状態で沈み込んでしまえば、救いようのないところまで堕ちていってしまいそうで怖かった。
だから、もがいた。ひどい気分のときはもがいて、あがいて、どうにかして立ち直る。それがある時期までの時雄の生き方だった。
現状を受け入れてしまえば、自分の弱さを認めることになりそうで、厭だった。どんなときも、負けたくはなかった。
いつからだろう。そんな時雄の生き方に変化が訪れたのは。
不意に訪れる哀しみに流され、沈み込むようになっていったのは。
―――千鶴と別れてからだ。
青天の霹靂としか言いようのないあの離婚劇は、時雄から最愛の女だけでなく、男としての自信のようなものを確かに奪い去った。
ときには傲慢とさえとられた時雄の自分自身を信じぬく気概は、あの事件をきっかけに失われ、かわりに己への不信感のようなものが芽生えた。
本当の自分はこんなにも弱く脆い人間だったのだ、と。
そもそも、時雄がいつもいつも自分を奮い立たせて生きてこれたのは、千鶴がいたからなのかもしれない。自分を貫きとおした結果、どんな酷い目に遭って、どんなに周囲から孤立したとしても、千鶴だけは傍にいてくれる。ずっと見守っていてくれる。かつて、時雄はたしかにそう信じていた。
だから、千鶴が去っていってからの時雄はまったく別の人間になってしまった気がした。
孤独―――。
そして、時雄は過去ばかりを見つめる人間になった。どうしようもない後悔とやりきれなさに始終支配されている人間になった。
そして今も―――
時雄は終わってしまった過去に苛まれている。
伊藤から聞かされた、自分と別れてからの千鶴の人生の断片。
救いようのないその話は、時雄の心を打ち壊すだけの圧倒的な力を持っていた。
理不尽に訪れたあの離婚のときも、それ以降の長い年月も、そしてつい最近再会し、あの恐ろしい告白を聞いた後でさえも、時雄は心のどこかで千鶴を信じる気持ちを捨てられなかった。憎しみや怒りや自分自身への不信感はあったとしても、だ。
なぜそこまでの思い入れがあるのかと考えても分からない。心から愛していたからと言えばそれまでだ。あるいは、短い期間ではあったが、千鶴と暮らした幸せな年月の記憶を汚したくないという想いがあったのかもしれない。あの年月すらも幻だったとしたら、時雄の人生は本当に何もなくなってしまう。
それが怖かった。
伊藤は他人だ。当たり前の人生を歩んでいたら、時雄とも千鶴とも一生関わることがなかったであろう男。
その男の目から見た、つい最近までの千鶴の姿は、時雄には信じがたいものだった。かつての千鶴からは想像も出来ない姿。
だが、それは実際にあったことなのだ。
一昨夜の告白で、千鶴はもっともひどい状態だったとき、木崎に助けられたといった。それをきっかけに、身も心も木崎に売り渡してしまった、と―――。
それはつまり、木崎の望むような女になったということだったのか。伊藤の話に出てきた破廉恥な振る舞いさえ厭わないほどの女に。
(嫌よ嫌よも好きのうちってね。そういうプレイなんだよ。男が卑猥なことを女に強制して、女はいやがる素振りを見せながら従うことで、下半身を濡らす。本当にいやだったら、まともな神経をしていたら、そんな馬鹿げたことをやる女はいないよ)
不意に伊藤の言葉が蘇る。目の前が真っ赤になって、時雄は慌てて道の端に車を停める。
息をついて、呼吸を落ち着かせた。
そんなことがあるはずはない。
たとえ、言葉どおり、千鶴が木崎の奴隷になっていたとしても、そんな境遇に彼女が暗い楽しみをおぼえていたなんてことは、あるはずはない。
心に湧いた疑念を必死に打ち消しながら、一方で時雄は自嘲している。
いまだ千鶴を信じる心を捨て切れていない自分を哂っている。
時雄は伊藤の話を最後まで聞くことは出来なかった。すでに神経はぎりぎりまで痛めつけられていて、気がおかしくなりそうだった。
明らかに様子のおかしい時雄に伊藤は恐ろしげな顔をしていたが、とにかく木崎の住所だけは教えてくれた。
「それで、写真は・・・」
それだけ聞いてさっさと靴を履きかけた時雄に、伊藤は玄関口でおそるおそる声をかけた。
「―――――!」
ものも言わず、時雄は手にしていた写真をびりびりに破き捨て、伊藤の家から飛び出した。つい一時間前のことだ。
そのまま時雄は自宅に向かった。木崎の家に直行はしなかった。すでに食わず寝ずの生活が長く続いていて、身体も心もぼろぼろである。このままの状態で木崎と対峙することは出来そうにもなかったし、その前に自分が何のために何を望んで動いているのか、またも時雄には見えなくなっていた。
あるいは―――時雄は怖かったのかもしれない。木崎の家に行き、そこにいるかもしれない千鶴と直接向き合うことが・・・。
自宅マンションの駐車場に車を停め、時雄は自室に向かった。
とりあえずはもう何も考えないで、ただ身体を休めたかった。
だが―――
マンションの前に停まった車の中から、こちらをじっと窺っている男が目に入った。
顔中アザだらけで、ところどころガーゼや絆創膏を貼っている。その下から時雄を見つめる、あの暗い目つき。
「木崎・・・・」
時雄は思わず呟いていた。
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