七塚 11/2(木) 22:04:38 No.20061102220438 削除
千鶴と暮らし始めて数年の間は、木崎は幸せだった。
もちろん、傍らの千鶴は、かつて木崎が死ぬほど恋焦がれた女とは違っていた。昔の千鶴ははにかむようにしながらもよく笑う女だったが、その頃はむしろ生気のない、人形めいた女と化していた。苛酷な生活の果てに、感情をどこかに置き去りにしてしまったかのようだった。かつて確かに抱いていた木崎への激しい憎しみさえも。
だが、それは木崎にとっては都合がよかった。ようやく手中に収めた千鶴は自分に対してひたすら従順だったが、それは愛情ゆえではない。木崎が肩代わりして払っている母親の治療費ゆえだ。そのくらいのことも分からないほど、木崎は愚かではない。しかしそうであっても、とにかく憎まれることさえなければ、いつかは本当に千鶴の愛を手に入れられる日が来るかもしれない。木崎はそう考えた。
だから、木崎は千鶴に尽くした。徹底的に。金で千鶴を縛っているだけだ、と考えるのは自分でも苦痛だったが、その気持ちを表す手段も木崎にとっては金しかなかった。
木崎は千鶴に金をかけた。美しい服を買い与え、常に美しく着飾らせた。そうすることで、一時の悲惨な生活で生彩を欠いていた千鶴の美貌が蘇ってくるのが、木崎には嬉しかった。相変わらず生気を欠いた千鶴の表情が、かえって異様な美を形作っていた。
その頃の千鶴はまさに人形だったといっていい。木崎の欲望を満足させ、妄想を昂進させる着せ替え人形のような存在だった。
だが、それから約一年後のある日。木崎の蜜月は急に終わりを告げた。
その当時、自分のいないときに、千鶴がどこかによく出かけているようだと木崎は気づいていた。それまではそんなことはなかったので、木崎は不安になって千鶴を問い詰めた。いつも無表情だった千鶴の顔に、さっと動揺が走るのを木崎は見た。
「俺は千鶴を問い詰めた。あいつからようやく話を聞いて、仰天したぜ。千鶴はどこへ行っていたと思う? ここだよ、お前が住んでいるこのマンションの前だ。もう一箇所ある。昔、お前と暮らしていた家だ。その家はともかく、千鶴がどうやってお前がここに住んでいることを知ったのは、俺には分からない。だが、あいつはよくここに来ていた。お前のいない時間を見計らってな。あの向かいの喫茶店で、ぼんやりこのマンションを眺めていたんだ」
木崎は自嘲気味に鼻を鳴らしながら、そう言った。
時雄は驚いていた。千鶴が昔、このマンションの前によく来ていた? 時雄が暮らしていると知りながら、わざわざ時雄のいない時間にやってきて、千鶴はどんな想いでこの建物を眺めていたのだろう。それから何年も経った一昨夜、初めてこの時雄の部屋に足を踏み入れたとき、千鶴はどんな想いでいたのだろう。
「俺も千鶴の話が本当かどうか、確かめるため、ここに来たことがある。だから、俺は今日ここへ来れたのさ。あのとき、一度来ていたからな」
そうしてマンションの表札にたしかに時雄の名があることを確認した木崎は、深い絶望に陥った。
千鶴と暮らすことで手に入れたと思っていた、理想的な生活が音を立てて崩れていくようだった。
ようやくモノにして、今度こそ掌中の珠を慈しむように愛していこうと誓った女。
その女の心の中には、まだあの憎い男がいた!
なんということだろう。
会える望みもなく、会っても憎まれるだけだと知りながら、かつて愛した男の住んでいる部屋をぼんやりと眺めている千鶴。その姿に、かつて血を燃えたぎらせるような想いで千鶴と時雄のいるアパートを見つめていた自分が、木崎の中でオーバーラップした。
ある意味、木崎は誰よりもそのときの千鶴の心情を理解出来る男だった。だからこそ、木崎は怒りと憎しみで我を忘れた。
木崎が千鶴を決して忘れられなかったように、千鶴もまたあの男のことを忘れられないのだ。そう思うと、いつかは千鶴の愛を受けられると夢見ていた自分が、たまらなく惨めになった。なんという道化者だったのだ、自分は!
千鶴の心はあの男を去らない。木崎は決して千鶴から愛されることはない。
それならばいっそ、傷つけてやる。傷つけて、傷つけて、二度と元には戻れないくらい、徹底的に堕としてやる。
憎悪の虜となった木崎の心は、今度はそんな妄執に取り憑かれた。
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