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北原夏美 四十路 初裏無修正

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七塚 11/6(月) 20:07:12 No.20061106200712 削除

 翌日は月曜日だったが、時雄は仕事を休み、千鶴の母親が入院しているという病院へ向かった。
 病院の所在は木崎に聞いた。
 昨日の苦しかった木崎との対峙を、時雄は思い出す。

「お前が何をしようが、奪われた時間はもう戻ってこない。今さらその時間を返せとも言わない」

 両者ともに魂をすり減らすような時間の終わりに、時雄は木崎に対して言った。
「だが、これからも千鶴につきまとうことだけは絶対に許さない。お前が千鶴の母親のために使った金がどれくらいのものかは知らないが、お前はその代価を十分に支払わせたはずだ。これ以上、千鶴の人生を金で縛るな」
「・・・・・・」
「もし、またそんなことがあるようなら、どこにいてもお前を探し出して、今度こそ叩きのめす。絶対に」
 木崎は黙っていたが、その様子に昔のようなふてくされたところはなかった。憑きものが落ちたようなその姿は一回り小さくなったようだった。

「最後に聞きたい。千鶴の居場所の心当たりはあるか?」
「・・・お前のところにいないなら、あとはひとつしかない。母親のいる病院だ。この何年もの間、時間があれば千鶴はいつもそこに通っていた」
「場所は?」
 時雄の問いに、木崎は迷うことなく答えた。それからくるっと背を向けて玄関に向かった。
「じゃあな」
 振り返らないままに、木崎は言った。
「もう千鶴には会わない―――」

 病院の受付係にはある程度の真実を素直に告げた。自分が入院している紙屋久恵の娘の別れた夫であること、世話になった久恵の見舞いをしたいこと。幸い、受付係の女性はその説明を信じてくれたが、しばらくまじまじと時雄の顔を見て言った。
「あなた、ものすごく顔色がわるいですよ。帰りにうちの医院で検査されたほうがいいですよ」
 時雄は苦笑するしかなかった。あまりにも苛酷なこの数日のために、身も心も疲れきっていた。

「久恵さん、とてもいい方で私も大好きなんですけど、お年のせいか、最近はちょっと記憶が混乱していたりします。そのことを少し、心に留めておいてください」
 時雄を案内してくれた看護婦はそう言って、病室の戸を叩いた。
「久恵おばあちゃん」
 看護婦の呼びかけに、ベッドの上の老女が顔をあげた。
「ああ・・・時雄さん」
「お見舞いに来てくだすったんですよ」
 看護婦はそう言って、時雄を中へ誘い入れた。
「お久しぶりです」
「ほんに・・・」
 久々に会った久恵は、当然のことながら記憶の中の久恵より老い、身体も小さくなっていた。長年にわたる病床生活で、腕も足も折れそうなほど細い。だが、柔和なその表情、優しげな目元は以前のままだった。
「この人はね、私の娘の旦那さんなんですよ。とてもいい方よ。あの子もいいひとにもらわれて、私、本当に嬉しく思っているの」
 久恵は顔をほころばせ、看護婦に向けてそう言った。驚いた時雄がちらりとそのほうを見ると、看護婦は無言でうなずいてみせた。
「そうなの。よかったね、お婆ちゃん」 
「はい・・・」
 看護婦の言葉に、久恵はにこっと笑った。人の善意そのもののようなその笑みは、張りつめた時雄の心を優しく潤わせた。
 ―――この世で一番尊い笑顔だ。
 本当にそう思えた。
 看護婦は久恵に笑い返し、もう一度時雄を見て無言でうなずくと、「失礼します」と言って出て行った。

「千鶴はよくお義母さんに会いにくるのですか?」
 しばらく久恵の体調や容態についての話をしたあとで、時雄はそっと聞いてみた。『お義母さん』という昔の呼び名を使うことは時雄にとっては切なくもあったが、久恵の中では時雄はまだ変わらず千鶴の夫だった。
「それはしょっちゅう。時雄さんにも迷惑だからそんなに頻繁にじゃなくていいといつも言ってるんですけどね・・・あの子は優しいから・・・。それより私は孫の顔が早く見たいですねえ」
 久恵の言葉に時雄はなんと答えていいか分からなかった。記憶の混乱した久恵は、千鶴と話すときも、今でも娘の夫は時雄であると思いこんで話していたのだろうか。そんなとき、千鶴はなんと答えていたのだろう。母親に夫のこと、家庭のことを聞かれて、千鶴はどう答えていたのだろう。
 そんな場面を想像して、時雄の胸は痛んだ。

「そういえば、昨日もあの子は来ましたよ。この花を見舞いに持ってきてくれました」
 幸い、久恵はあっさり話を変えて、ベッドの横の台上を指差した。久恵は『花』と言ったが、実際はそれは縦長の画用紙に描かれた絵だった。花は金木犀、素朴なタッチと繊細な色使いは、明らかに記憶の中の千鶴のものだった。
「あの子はよくこんなふうな花の絵を持ってきてくれるんですよ。絵なら枯れないし、いつでも楽しめるからねえ。ほら、ここにたくさん」
 そう言って久恵は台の引き出しからクリアファイルを取り出した。受け取って開いてみると、そこには花、花、花。春夏秋冬を彩る花の数々が、季節ごとにきちんと整理されて並べられていた。
 暗鬱な日々を生きる中でも、千鶴は床に伏す母に贈るため、こうして何枚も何枚も美しい絵を描き続けていたのだ。眺めていると、自然に涙が出てきた。今までどんな辛い目にあっても涙は出なかったが、今度ばかりはたまらなかった。そもそものはじまり、時雄が千鶴という女性に惹かれるきっかけとなったのも、温かさに満ちた彼女の絵だった。そして今、眼前には千鶴の絵があふれている。千鶴があふれている。
 ぽろぽろと涙をこぼし、声もあげずに泣く時雄を、久恵は驚いたように見ていたが、やがてまた慈愛に満ちたあの笑みを浮かべた。
「どうも、時雄さんは疲れているようですね。何事も頑張りすぎはよくありませんよ、ほどほどが一番・・・。ほら、そこの椅子に座って、今日はしばらく休んでいかれたらどうですか」
 時雄は久恵に頭を下げ、彼女の言葉どおり病室の椅子に腰掛けた。涙をぬぐって、瞳を閉じる。
 これまでひどい日々の連続で心身ともにすり減らしてきたが、今日この瞬間だけでその甲斐はあったと思えた。それほど胸が熱くなっていた。
 そのまま、ゆっくり時雄は眠りに落ちた。久々の、何もかも包みこまれるような眠りへと。

 そして、目が覚めたとき、目の前には千鶴がいた。 

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