七塚 11/8(水) 00:52:32 No.20061108005232 削除
やがて、時雄は口を開いた。
「君の言いたいことは分かった。どれだけ理解できているのか心もとないけれど、君の気持ちも俺なりに分かったつもりだ。そのうえで言いたい。君はあまり何もかも背負い込もうとしすぎだよ」
固く握り締められたままの千鶴の小さな拳を見つめながら、時雄は言った。
「さっき病室でお母さんが言っていたよ。何事も頑張りすぎはよくない、ほどほどが一番だとね。誰でも綺麗なだけじゃ生きていけない。エゴのためによくないことや醜いこともする。誰かを犠牲にすることもある。それが本当に生きているってことじゃないのか。たしかに俺は君が出て行ったとき、辛い思いをした。その後も、ここ最近もずっと辛かった」
「ごめんなさい」
「まあ、聞いて。辛かったのは君が好きだからだ。ずっと好きだったからだよ。でもその思いは俺のもので、君のものじゃない。木崎も木崎なりに君のことは愛していただろうが、それと君の思いとは関係ない。君は誰かに何かに縛られる必要はないんだ。すべてのことに矛盾なく辻褄を合わせるなんて、世界中のどんな奴にだって出来るはずはない。皆、違った人間なんだ。だから憎んだり、怒ったり、哀しいことが起きるんだけど。でもそのうえで、出来るかぎりで誰かと心を合わせて生きようとしている」
「そうだとしても・・・自分のしたことの責任は取らなければなりません」
「それはそうだろうけど・・・だけど、少なくとも今の俺にとっては、本当はそんなことは重要じゃない。罪滅ぼしなんて望んでいない。君にとってはまた違うんだろうけど、俺は」
責任とか、過去とか、罪とか。
裏切りだとか、後悔だとか。
そんなことはもうどうでもいいじゃないか。
俺はただ、好きなだけだ。君のことが好きで、ずっと一緒にいたいだけだ。
本当はそう叫びたかった。だが、時雄は言わなかった。そんな言葉で片付けるには、千鶴の迷い込んだ深遠はあまりにも深すぎた。どんな言葉も今の千鶴には届かない。彼女のくぐり抜けてきた暗闇の一部を覗き見た時雄だから、なおさらそう思えた。
「・・・君がどうしてもそうしたいと言うなら、俺にはとめられない。ただ、俺にも君を助けさせてほしい。言っておくが、木崎には金を返す必要はない。君も俺もそのために十分すぎる代償は払っている。それは木崎にも言い、奴もそれを受け入れた。もうひとつ、久恵さんの治療費に関しては、俺にもその負担を分けてほしい」
「お気持ちはありがたいです。でもこれ以上あなたに迷惑は」
「迷惑なんかじゃない」
時雄は強い調子で、千鶴の言葉を遮った。
「久恵さんは俺にとっても大切な人なんだ。役に立てて嬉しいとは思っても、迷惑だなんて思いはしない。それは君に対しても言えることだ。俺は今でも君が好きだ。君のためならなんでもしたいと本当に思っている。だけど、今の俺が何をしても、それがまた君を縛ってしまうことになると思う。俺が金の問題を肩代わりして、君が俺のもとへ戻ってきてくれたとしても、それでは木崎と同じことになってしまう。君は俺に対して負い目を感じ続け、また別の人形になってしまうと思う。そんなことは俺も望んでいないよ」
千鶴は黙ってうつむいた。その細い頸を時雄は見ていた。
「だけど、どうであれ、俺は君にこれ以上不幸になってほしくない。だから」
時雄は一瞬、ためらった。その先の言葉は、本当は口に出したくなかった。
だが―――言わなければならない。
「君がこの先、普通の仕事をして普通に生活していけるだけの生活費を考えた範囲で、俺も久恵さんの治療費を分け合う。何度も言うが、これは俺からの気持ちで出すお金で、何も負い目を感じる必要はない。でも、いくらそう言ったところで君の気持ちは納得しないだろう。だから―――俺はもう君には会わないことにする。連絡も取らない」
千鶴の瞳が驚きで大きく開かれた。悲痛な想いでそれを見つめながら、時雄は言葉を続ける。
「俺のために何かしなければならないなんて思わないでもいい。俺は木崎にはなりたくない。これ以上、金や自分の気持ちで君を縛りたくない。君が自分の意思で生きていこう、そうすることで立ち直ろうとしているなら、決してその邪魔をしたくない。だから・・・もう会わない」
本当は厭だった。
どんなことになっても、ほかの誰かを傷つけてでも、千鶴の傍にいたかった。ずっと一緒に生きていきたかった―――。
けれど、せっかく前向きに生きようとしている千鶴を縛りたくないというのも本心だった。千鶴が自分の意思と心で生きていこうと決意したなら、それを引き止めるような真似はしたくなかった。そうしなければ千鶴の心が救われないなら―――。
突然告げられた別れの言葉に、千鶴は呆然としていた。やがて、大きく開いたままの瞳から、涙が後から後から零れだした。千鶴の震えた唇が動き、何か言おうとしたが、言葉にならないまま、また閉じられた。
願わくば―――と時雄は思う。今の別れの言葉を、己に与えられた罰のように千鶴が受け取らないで欲しいと思う。そんなつもりは微塵もない。本当に千鶴を愛している。だから、今は彼女から離れなくてはならない。
そのまま二人は、何も言わずにいつまでもそこに座っていた。
一組の元夫婦の事情などかまうはずもなく、時間は流れ、過ぎてゆく。
千鶴と再会し、また別れたあの秋から、季節は変わって冬になり春になり夏になり、そしてまた秋になった。
時雄は相変わらず独りだった。周囲の状況にも変化はない。ただ淡々と仕事に精を出しているだけだ。
千鶴とはあれから一度も会っていない。言葉どおり、千鶴の口座に毎月相応の金額を振り込んでいるが、それを本当に千鶴が使ってくれているかどうかも分からない。そうしてくれればいい、と祈るような想いでいるだけだ。
先日、久しぶりに久恵の見舞いに行った。久恵は相変わらず時雄と千鶴が今も夫婦でいると思い込んでいる。それが辛くて、あまり見舞いにも行けない。千鶴と会ってしまう可能性もある。本当はそんな偶然が訪れることを心の底で願っているのが自分でも分かるので、なおさら時雄は行かない。
自分から会うことはしないが、もう二度と千鶴と会えないと決まったわけでもない。もし、千鶴が立ち直り、彼女から会いにきてくれたら、もう一度ただの男と女としてやり直すことが出来るかもしれない。そうならなくても、千鶴が幸せになってくれればそれでいい。一年前、あの辛い日々の中でもがき苦しんだ意味はそれで十分にある。
その先日の見舞いの時、時雄は久恵から千鶴の描いた花の絵をひとつ分けてもらった。時雄の一番好きな花を。
だから時雄の何もない部屋では、季節外れの一輪のヒナギクだけが、今もそっと咲いている。
<了>
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