桐 10/18(木) 21:20:17 No.20071018212017 削除
「久しぶりだな、江美子。もう5年になるかな」
その男──水上孝之は立ち上がった江美子に手を差し出す。江美子が握手に応じないのを見て苦笑しながら向かい側の椅子に腰をおろす。
「髪形を変えたのか?」
ウェイトレスにコーヒーを注文した孝之は笑みを顔にはりつけながら尋ねる。
「そりゃあ5年もたてば、髪形だって変わります」
「いや、違うな。それは美容院に行ったばかりの髪だ。俺のためにお洒落をしてくれたのか」
「……」
「俺はそういったことには敏感なんだ。特に江美子のことについてはな」
「関係ないわ、それに私を呼び捨てにするのはやめて」
江美子は低い声で孝之に告げる。
「水臭いことを言うな。新しい髪を亭主の前に、俺に見せてくれるくらいだ。まだ俺たちは気持ちの上では繋がっているんじゃないか」
「馬鹿なことを言わないで」
今年で38歳になるはずの孝之だが、少し頬の辺りにたるみは見えるが、まあ端正といって良い顔である。江美子もその孝之が誰よりも素敵だと感じたこともあった。そう、今から7年程前までは──。
江美子が孝之と出会ったのは今から7年前。まだ江美子が26歳の頃である。当時31歳だった孝之と江美子は、各銀行の為替ディーラーが集うセミナー懇親会で出会った。
当時、ある外銀の花形ディーラーであり、セミナーの講師まで勤めた孝之にその後の懇親会で声をかけられ、江美子の気持ちは高揚した。為替取引の第一線で活躍する孝之の話は刺激的であり、会話を交わしていると江美子は自分が高められるような気がするのだった。積極的にアプローチしてくる孝之と江美子が付き合い始めるまで、それほど時間はかからなかった。
江美子が孝之との結婚を意識し始めたのはそれから1年ほど後である。なかなかプロポーズをしない孝之に、ある日ベッドの中で江美子がそれとなく結婚のことをほのめかしたとき、江美子は驚くべき事実を孝之から聞かされた。
孝之には結婚して4年になる妻と、もうすぐ2歳になる娘がいるということである。
迂闊にも江美子は、それまで孝之が結婚しているということにまったく気がつかなかった。孝之自身もはっきりとは言わなかったが、一人身だということをそれとなくほのめかしていたからすっかり安心していたのである。
「俺は一人暮らしをしているとは言ったが、結婚していないとはひとことも言っていないよ」
「そんな……」
事実を知って呆然としている江美子に対して、孝之は平然と言ってのけた。24時間体制で仕事をしなければならない為替ディーラーという職業上、孝之は郊外にある自宅以外に都心にワンルームのマンションを借りていたというのである。
「だって孝之は、自分には家族はいないって……」
「それは比喩的な表現だ。家族はいないようなもんだ、という意味だ」
孝之はそう言うとにやりと笑った。
「まあ、江美子はそんなことは気にすることはない。今までどおりの関係を続ければ良いんだ」
「今までどおりって……」
「いわば江美子は月曜から金曜までの俺の妻、いや、自宅に帰るのはせいぜい月に一、ニ度がいいところだから、ほとんど俺の妻同然といってもいい。たまに自宅に帰るときには、俺の戸籍上の妻が現実にも妻になるというわけだ。つまり俺には妻が二人いる、っていうことになるか」
「馬鹿にしないで」
憤然としてベッドから出ようとする江美子の肩を孝之が押さえつける。
「やめて」
「江美子が制度上の結婚にそんなにこだわっているとは思っていなかった。もっと進んだ女だと思っていたがな」
「騙したことが問題なのよ」
「さっきも言ったが、騙したつもりはない。江美子が勝手に思い込んだだけだ」
「詭弁はやめて」
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