桐 10/28(日) 14:55:35 No.20071028145535 削除
「この前江美子さんの髪型を見て、素敵だなと思ったの。だから少し真似をしてみたのよ」
「真似って……これはもともと麻里さんの髪型じゃ」
「そうだったかしら」
麻里は軽く首をかしげる。
「昔のことなのでよく覚えていないわ。でも、今はすっかり江美子さんのものといっていいわ。とてもよく似合っているわよ」
「……」
江美子が自分の服に視線を向けているのを感じたのか、麻里は微笑を浮かべたまま続ける。
「たまにはこんな硬めの服もいいかなと思って、これも江美子さんの影響かしら」
「そう……ですか」
「江美子さん、とても素敵なんですもの。あの人が惚れ込むのも無理はないわ」
麻里はそう言うと手に持った大きめの紙袋を足元に置き、カウンター席に座る。
「あら、まだ頼んでいなかったの」
「ええ」
「ねえ、この前の、何といったかしら。ペパーミントのカクテルをお願い。江美子さんは何にする?」
「あ、同じものでいいです」
「かしこまりました」
バーテンダーは微かに江美子に目配せする。それが、酒にあまり強くない江美子が酔い過ぎないようにラム酒の量を調節するという意味だと解釈した江美子は了解したというように目で合図する。
「どうぞ」
カウンターに2つのグラスが並べられる。麻里はグラスを取ると「乾杯」と声を上げる。江美子も釣られて「乾杯」とグラスを合わせる。
「でも、よかったわ」
「何がですか」
「あの人のところに江美子さんのような人が来てくれて」
ペパーミントのモヒートを口にした麻里は邪気のない表情で江美子に話しかける。
「これで私も安心できるわ」
江美子は麻里の意図が図りかねて黙り込む。
「あら、おかしな意味じゃないのよ。変に気を回さないでくださいね、江美子さん」
「私は、別に……」
「そうそう、今日は江美子さんにお渡ししたいものがあったの」
麻里は鞄の中から古いノートのようなものを取り出し、江美子に渡す。
「これは」
「中を見て」
江美子はノートをめくる。几帳面な手書きの文字でびっしりと埋められたそれは、理穂の誕生から成長の過程を綴った育児日記というべきものだった。
いつどんな病気をしたのか、接種済みの予防注射は何かというような実際的な記載だけでなく、育児の過程での苦労やささやかな喜びがこと細かく記載されている。麻里は仕事と育児の両立、およびそれに伴う義母との確執に苦心していたと聞いているが、そのような記述はほとんどない。そのノートの中の麻里の視線はまっすぐに理穂に向けられていた。
ところどころ隆一に関する記述もある。そこには理穂が慕い、麻里が頼りにしている一家の大黒柱である父親としての隆一が描かれている。あくまで中心には理穂が置かれているため、男性としての隆一の姿は希薄だが、それがかえって江美子にとっては新鮮だった。
ノートの最後の方には最近まとめられたのか、比較的新しい筆跡がある。理穂や隆一の好物と思われるメニューのレシピ、入居しているマンションに関する注意書き、親戚付き合いや冠婚葬祭に関する簡単な記述ーー。
江美子は驚いて麻里の顔を見る。江美子にとって麻里は良く言えば奔放、悪く言えばルーズな印象しかなかった。しかしそのノートの記述から伺える麻里の姿は典型的な良妻賢母である。
「江美子さん、そのノート、もらってくれないかしら」
「えっ」
江美子は驚いて麻里の顔を見る。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)