BJ 7/20(木) 21:57:58 No.20060720215758 削除
私と妻が休暇を利用して岐阜の温泉郷へ出かけたのは、その年の八月半ばのことでした。
妻と旅行へ行くのは新婚のとき以来でした。喧騒の街大阪を離れ、仕事も忘れて四日間ゆっくりと静かな山里で過ごすという計画に、妻も喜んでいるようでした。
難波から近鉄で二時間かけて名古屋へ到着し、それからJR高山本線へ乗り換えます。天気は快晴で、抜けるような青空には何の翳りもありません。
妻の表情も珍しく晴れ晴れとしていました。私はその顔を見て、今更に胸が痛むのを感じました。
高山の駅で降りて、城山公園を巡り高山城跡を見てから、また市街地へ戻った時のことでした。
「おい、――じゃないか」
すれ違いかけた男が声をかけてきました。赤嶺です。隣には明子がいて、これもびっくりしたように私を見つめています。
「どうしてお前がここに?」
「それはこっちが聞きたいくらいだ」
赤嶺が妻へ視線を向けました。同様に驚いた顔をしていた妻が、その瞬間恥ずかしそうに目を伏せます。それを目にして赤嶺が苦笑を滲ませた表情を私に向けました。私は軽くうなずきました。
すべて計画通りでした。私と赤嶺、それに明子は旅先で偶然出会ったことを装う計画を立てていたのです。知らぬは妻ばかりです。
「お久しぶり、――さん。それにしても驚きね」
明子は、彼女はあらかじめ赤嶺に頼まれて私たちの協力者になっていましたが、この旅では私の大学時代のサークルの後輩という設定でした。
「ああ、本当に」
「そちらの方は奥さん?」
「そうだ」
「はじめまして。わたしは遠野明子といいます。――さんとは大学のサークルが同じで、色々お世話になりました」
突然のことに困惑したようだった妻も、明子の年に似合わぬ落ち着いた物腰に普段の自分を取り戻したようで、「はじめてお目にかかります。――の妻で、瑞希と申します」と生真面目な挨拶を返しました。
「赤嶺のことはもう知っているだろう。明子は赤嶺の奥さんなんだよ。俺がふたりの間をとりもったんだ」
「そうでしたの」
「おーい、こんな道端で立ち話もなんだ。どこか休める店に入ろう」
赤嶺の号令で私たち四人は歩き出しました。
「ふうん、それにしても奇遇だな。夫婦で旅行した先が同じ場所なんて」
「あなたたち、よっぽど気が合うのね」
「よせよ、明子。こいつとは昔から因縁の仲なんだ」
「何よ、それ」
私と赤嶺、そして明子がさも和気あふれる会話を交わしているのを、妻は所在なさそうに、ただし外見にはそんな思いは出さぬように気を遣いながら静かに聞いています。適当に入った喫茶店はよくクーラーが効いていて、少し肌寒いほどでした。
「お前と奥さんは泊まる宿は決めているのか?」
赤嶺がふと思いついたように聞いてきました。
「ああ。北部の奥飛騨のほうに宿を決めてあるんだ。そこに三日間連泊してゆっくり過ごす。お前たちは?」
「じつは俺たち、行きあたりばったりでさ。なにせ飛騨へ出かけることも昨日決めたくらいだから、宿も何も考えてないんだ」
「いい加減だな」
「それでさ、もしよかったら、お前と奥さんが泊まる宿を紹介してくれないか?」
「いいけど、この季節だし、空いていないかもしれないぞ」
「電話番号は控えてあるんだろ。聞いてみてくれないか?」
「しょうがないな」
私はぶつくさ言いながら、店の外へ電話をかけに行くふりをしました。事実はすでに赤嶺たちの宿は確保されているのです。
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BJ 7/20(木) 21:57:58 No.20060720215758 削除私と妻が休暇を利用して岐阜の温泉郷へ出かけたのは、その年の八月半ばのことでした。妻と旅行へ行くのは新婚のとき以来でした。喧騒の街大阪を離れ、仕事も忘れて四日間ゆっくりと静かな山里で過ごすという計画に、妻も喜ん?...
2012/05/23 16:53 | まとめwoネタ速neo