KYO 5/14(日) 00:10:44 No.20060514001044 削除
「まただわ……もう、いい加減に諦めてくれないかしら……」
3月のある土曜の昼下がり、遅めの昼食を終えたダイニングテーブ
ルの上に置かれた妻の携帯が軽やかなメロディを奏でました。妻は
受信されたメールを読むなり小さく眉をしかめました。私は読みか
けの新聞を置くと、妻に声をかけました。
「どうしたの」
「今年一緒に厚生部の役員をやった藤村さんから……どうしても来
年、一緒に役員をやってくれって」
「また厚生部の?」
「違うの。今度はPTA本部の役員をやってくれって言っているの」
「どう違うんだ?」
「あなた、何も知らないのね。PTAには本部と専門部があって、
私が今年副部長をやった厚生部は文化祭でのバザーや、奉仕活動が
担当なの。今度やってくれって言われているのは本部の書記だから、
ずっと大変なのよ」
「どうして絵梨子が頼まれているんだ?」
「藤村さんがもう会長になる犬山さんから頼まれて、会計を引き受
けちゃったらしいのよ。それで一人では心細いから、私にぜひ一緒
にって」
「それは言ったら悪いけど、藤村さんが勝手に引き受けたことだろ
う。絵梨子は断っちゃってもいいんじゃないか?」
「藤村さんだけじゃなく、副会長になる橋本さんからも頼まれてい
るのよ」
「橋本さんって誰だ?」
「A銀行の融資業務部にいた、一応私の上司だった人。今はどこか
の店の支店長になっているけれど」
妻はほとほと困ったという表情をしています。
妻、絵梨子は今年42歳になったばかり。このあたりでは名の通っ
た地方銀行であるA銀行でパートをしている傍ら、昨年は息子が通
っている私立B高校のPTAの役員をしていました。役員の改選期
にあたり、昨年よりも重い役職につかされそうになっているような
のです。
ちなみにB高校は超一流というほどではありませんが、歴史も古く
毎年それなりに進学実績もあり、県内の大企業や県庁、市庁にはた
くさんのOBが勤めています。また、元々地元の商人が共同出資し
て設立したという経緯もあり、OBには中小企業の経営者、および
その二世が多いのも特徴です。
PTA役員の構成も、文化部や厚生部といった専門部は母親中心で
すが、会長、副会長などで構成される本部役員はB高OBである父
親が例年多くを占めており、来年の役員候補も妻が推されている書
記以外の、会長と3人の副会長はすべて男性の予定だということで
す。
そういうこともあって妻と親しい藤村さんが女性一人だけでは心細
いというので、気心の知れた妻を強く誘っているのでしょう。
ちなみに後で分かるのですが、妻以外の新しい役員(候補)のプロ
フィールは以下のとおりです。
PTA会長 犬山豊(52歳)ホテル・飲食店経営
副会長 毛塚新一(48歳)下着ブティック経営
副会長 橋本幸助(45歳)A銀行勤務
副会長 道岡竜太(44歳)整形外科クリニック開業
会計 藤村尚子(43歳)専業主婦
「あなた、ちょっと出かけてきます」
「どこへ行くんだ?」
「藤村さんに会って、直接断ってきます。今年は浩樹も受験だから、
役員は無理だって」
「今からかい? 藤村さんが会って話したいといっているのか?」
「ええ、横浜駅の改札で待ち合わせを……」
「そうか……」
会えば却って断れなくなるんじゃないのか。私は妻の性格からそう
懸念しましたが、口にはしませんでした。会長や副会長ならともか
く、書記であればそれほど大変な仕事でもないだろうと思ったので
す。家とパート先である銀行との往復ばかりの妻にとっては世間が
広くなる良い機会ではないかと思ったのです。また、PTAの役員
となる父親たちはそれぞれきちんとした仕事を持っており、そうい
った人たちと付き合うのも、男が外で仕事をする大変さを知る良い
きっかけになるのではと思いました。
「あなた、これでどうかしら?」
手早く着替え、化粧をした妻はハンドバッグを持って私の前に現れ
ます。パールホワイトのシャツブラウスと薄いグリーンのスーツ、
そして同系色のスカーフを身につけた妻は、夫の私が言うのもなん
ですが、42歳という年齢が信じられないほど初々しく見えます。
165センチほどもある長身の妻は、容貌も一昔前にバレーボール
選手として活躍し、現在はタレントである益子直美に良く似た、目
元のはっきりした容貌です。
明るめの栗色に染めた、軽くウェーブのかかった短めの髪が新緑を
思わせる服の色に良く映えています。私は思わず妻の姿をぼおっと
眺めました。
「どうしたの? あなた」
「あ、ああ……いいんじゃない」
「そう? 良かった。あまり遅くならないようにします。夕食の支
度には間に合うように帰りますから」
「わかった」
「それじゃ、行ってきます」
妻はにっこり微笑むと、家を出ました。私は妻を外出させたことを
後々まで後悔することになりますが、この時はそのようなことは想
像もしていませんでした。
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