[2396] 背信12 投稿者:流石川 投稿日:2005/11/15(Tue) 23:21
亮輔にとって由紀は、三十八年間の人生における掌中の珠だった。
運命の女と出会う前、彼は自分の人生にある程度の満足を覚えていた。知らぬ者のない一流電器メーカーの商品開発職という仕事。学生時代からの付き合いで結ばれた妻・洋子。郊外ながら東京二十三区内に購入した三LDKのマンション。洋子の身体的な理由で子供にこそ恵まれなかったものの、このまま静かに歳を重ねていき、いつかそれなりに満足ができる生涯を終えるのだろうと考えていた。
だが、由紀との邂逅は、そうした人生観を瞬時にして瓦解させた。
(こんなに美しい女が現実の世界にいたなんて)
スクリーンかグラビアの中でしか目にできないはずの存在が、いきなり生身で現われた。手を伸ばせば届きそうな距離に……。気がつくと亮輔は理性を忘れ、猛然とアプローチをかけていた。届く余地などない想いだったはずが、思いがけなく由紀も亮輔を愛してくれるようになった。
その後に訪れた試練の歳月。あれほど従順だった洋子は夫の変心を知ると、般若と化した。さんざん荒れ狂った末に会社の上司に亮輔の不貞を直訴し、慰謝料をよこせと泣きわめいた。結果、亮輔は退職を余儀なくされ、貯蓄をはたき、マンションを手放したのだった。
それでも彼の心は、かつてないほど深く熱く燃え盛っていた。
(由紀と人生をやり直せるのなら、身ひとつになっても構わない)
悲願が叶い迎えた由紀との結婚式。亮輔の瞳には万感の涙があった。まばゆいほどに輝くウェディングドレス姿の新婦。周囲の羨望と嫉妬の視線。思えばこのときが、亮輔の絶頂だったのかもしれない。
変調は間もなく訪れた。
(……由紀を絶対に失いたくない……)
幸福を満喫しようとすればするほど、灼けつく想いは日に日に強まっていった。由紀が、半生で得たすべてを代価に購った女だからという理由だけではない。もはや由紀は亮輔を支配する価値観であり、生きる意味そのものとなっていたのだ。
(あんなにいい女なんだぞ。男は誰もが由紀を狙ってる。一発やりたいと妄想している)
それだけの女に愛を捧げられた誇りより、根拠のない嫉妬が先に立った。理屈ではない。美しい女を妻に迎えた男の宿命を愉しむ余裕が亮輔にはもはやなかった。
だが、それでいて狂おしい気持ちを伝えられない。
(男の、しかも九歳も年上の男のやきもちなどみっともない。呆れられ、蔑まれるに決まってるじゃないか。由紀に嫌われたら、もう俺は生きていけない)
だから亮輔は、徹頭徹尾“寛大で物わかりのいい亭主”を演じると心に誓った。
(すべてを許し、すべてを愛せる夫こそ、由紀にはふさわしい)
それが良くなかったのかもしれない。不安、怖れ、嫉妬。捌け口を失ったあらゆるエネルギーは内向し、爛熟した。
寝物語に由紀が川村のことを口にしたのは、そんなある晩のことである。言い寄ってきては退けられる哀れな男の物語と嘲笑しつつも、初めて耳にした具体的な男の名は実像となって、亮輔の心を暗く焦がした。
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