[959] 贖罪06 投稿者:逆瀬川健一 投稿日:2001/07/27(Fri) 22:02
【#06 接触】
例の一件以来、妻と私との関係は良好だった。特に、性的な面での充実感は結婚して初めて感じるものだった。新婚時代にもこのような満足感を得たことはない。結婚生活というのは、互いの生活環境の違いからくる違和感をすり合わせる過程にもっとも時間を使うものだ。新鮮な悦びを代償にしながら。
結婚十一年にして、このような新しい視野が開けるとは思わなかった。Fという男と今でも会っているのは確かだが、純粋に肉体だけの関係だろう。私の心がざわめかなかったといえば嘘になるが、その心の揺れすらをも官能の加速剤にできるほど、当時の私には余裕のようなものがあった。さらに、マネージャーに昇格したからといって、妻の収入が飛躍的に上がることがなかったことにも安堵していた。妻自身がディーラー勧誘を行っているのではないことを、収入の横這い状態が意味していたからだ。
妻がTと知り合ってからすでに半年。もうすぐ事業熱も冷めるだろうと、たかをくくったまま、新年を迎えた。
私の実家と妻の実家に年賀の電話を入れ、屠蘇代わりのビールを冷蔵庫から取り出したとき、玄関のチャイムが鳴った。
おれが出るよ、と言って玄関に向かった。オートロック解除を求めずにいきなりチャイムを鳴らせるのはご近所の者か、極々親しい友人だけだ。
相手の確認もせずにドアを開けた私の前に立っていたのは、Fだった。
タートルネックのセーターに目の粗いウールのジャケット、厚手のチノパンツという出で立ちだ。満面に人なつこそうな笑みをたたえているが、薄い色のついたサングラスの向こうの眼は笑ってはいない。
「明けまして、おめでとうございます」
名乗りもせずにFが言った。私はつられて同じ言葉を返した。
「すでにご案内いただいているかと思いますが、私はFと申します。昨年の夏から奥さんにはいろいろお世話になりまして」
「いえ、こちらこそ、……どうも」
迂闊だった。妻のビジネスと自分はいっさい関係がないというスタンスで接するべきだった。
「あら、Fさん!」
妻が廊下に姿を現した。Fと新年の挨拶を交わすと、私に向かって言った。
「せっかく来られたんだから、あがってもらいましょうよ」
「よろしいんですか?」Fは私を見た。「大手広告代理店の管理職をなさってるんでしょ。部下の方が新年のご挨拶に見えるんやないんですか」
「もう五年も前から、そんな虚礼は廃止になったんです」すかさず妻が答えた。「さ、遠慮なさらず、どうぞ、お上がりください」
リビングのソファにどっかと腰を据えたFは、遊び人風の格好からは想像できないほど、よく気のつく男だった。妻の料理をほめ、私の仕事をねぎらい、次から次へと話題を繰り出した。
だが、相槌を打ちながらも、私は上の空だった。
今、Fが座っているソファで、妻に口腔奉仕をさせていた光景が脳裏から離れない。出張期間が延びたと偽ってマンションにとって返した私が見た、あの夏の宵の光景が……。
Fの話題が一段落つくと、妻が腰を上げた。「あ、そうそう。Tさんに年始の電話をしておかなきゃ」
「そらええこっちゃ」Fが大きくうなずいた。「このビジネス、基本は人間関係やからね。節目節目のコミュニケーションは大切や」
「ほな、話が長くなるかもしれへんから、あっちの電話使うね」
寝室へ消える妻を見送り、Fが目尻を下げた。「ほんまにええ奥さんやねえ。ご主人、幸せ者でっせ。あんな嫁はんを毎晩、抱けるっちゅうのは」
露骨な言葉に唖然となっている私にかまわず、Fは続けた。
「ご存じやと思いますが、ご主人のお留守にときどきお邪魔してるんですわ。そのたびに奥さんを抱かしてもろてますが、いやあ、最高やね。天国に昇る心地とはあのこっちゃね」
(挑発してるんか?)
私は決して血の気の多いほうではないが、このときばかりは獰猛な怒りが膨れあがるのを感じた。次の言葉を待って、殴るなり、マンションから叩き出すなりの行動を起こすつもりだった。
「悪いとは思たけど、ご主人のパソコン、見せてもらいましたで」
頭にのぼった血が一気に下がった。まさか……?
「ぎょうさんコピーしたファイルが残ってましたな。いくら夫婦いうたかて、奥さん宛のメールを勝手に覗くのは、ええ趣味とちゃいますな」
「そ、それは夫婦の問題やろ。あんたに指図される筋合いは――」
「奥さん宛のメールには、私らの商売のノウハウが詰まってるんです。夫とはいえ、部外者に洩れたら困るノウハウがね」
「ぼくは誰にも――」
「それに」Fは私をさえぎって声を低めた。「ただでさえ、大損しそうやいうのに」
「……大損?」
「元旦からこういうことは言いたくはないんやけど、奥さんの成績がいまいちでねえ。Tさんや私が保証人になって、どうにかマネージャーの地位をキープさせてやってるんですわ。どういうことがわかりますやろ?」
私は首を振った。Fは溜息をついてから、経緯を語った。
マネージャー以上のレベルにある者は毎月のノルマを果たさねばならないという。商品の売上か、ディーラーの勧誘かどちらかのノルマを。だが妻は、マネージャー昇格以来、ノルマを果たしていないのだそうだ。マネージャーに固執するあまり、妻は商品を自分で買い取って見かけ上のノルマをどうにか維持してきたという。
「奥さんの負債、知ってはります?」
Fはますます声をひそめた。
「元金だけで三百万いってまっせ。私もTさんも、もう保証人としては限界や」
「私に払え、とおっしゃるんですか」
元金だけで三百万円。利息を合わせればどれくらいになっているのだろう。
「まさか。名義は奥さんですから、ご主人には関係のない話や。いちおう、情報としてお耳に入れておこう思たんですわ」
しかし、と反論しようとした私を、Fは押しとどめた。
「奥さんは、自力で返済する言うてます。あんたにできることは、おとなしく見守ってやることだけや。奥さんが家を空けたりしても、騒がんこと。できますやろ、それくらい。私と奥さんとの関係を黙認していたくらいやから」
私にはぐうの音も出なかった。声を荒げるわけでもなく、ドスを効かせて恫喝するでもなく、Fは事実の積み重ねだけで私を圧倒した。
「そうでもしないとノルマが消化できないんですか」
「いや、そうやない。ここまでくれば、商売で返済することは無理ですわ。レベルアップとかの問題やのうて、返済のみに絞ってもらわんとね」
「とにかく負債の額を確認して、返済できる分は何とかします。あとは、夫婦でパートでも何でもして――」
「無理やと思うけどね。こうしてる間も金利はどんどん膨らんでるんやから。ほんまにトイチいうのは怖いわ」
トイチ――十日で一割の金利という融資だ。元金が三百万円だとしたら、十日で三十万円の利子がつく。月収十五万という妻の収入では、利子の半分でしかない。利子が元金に繰り入れられ、さらに負債がかさんでゆく無間地獄だ。
「どうすればいいんでしょうか」
「だから、さっきから言うてるやないですか。奥さんの行動にとやかく口出ししないこと。これで丸く収まるんやから楽なもんや」
(主婦売春!)
ひらめいたのは、その言葉だった。私の表情の変化を、Fは咄嗟に見抜いていた。
「おっと。想像するのは勝手やけど、そんなしょうもないもんちゃいまっせ。人品骨柄卑しからぬ人物と付き合ってもらうだけですわ。まあ、半年もすれば借金はきれいに無くなります。心配せんかてよろしい」
私はうなだれた。
「まあ、心配するな言うほうが無理やろな」Fは腕組みをして天井をにらんだ。「気になるんやったら、あんたも来たらどうや? そのかわり、単なるオブザーバーに徹してもらいまっせ。約束できるんやったら、できるかぎり便宜を図ったるわ」
私は激しくうなずいた。妻の帰りを、この部屋で悶々として待つ日々を想像するだけで気が狂いそうだ。妻が誰に、何をされているのかを見るほうがまだましだ。
「そういうことやから」いつの間にか、リビングに入ってきた妻がぽつりと言った。「ごめんね。こんなんなるまで黙ってて。あなたには決して迷惑をかけたくなかったの」
片腕にコートを掛けた妻はセーター・ドレスを着込み、すでに化粧まで済ませていた。髪はオールバックになでつけられている。
Fが立ちあがった。「奥さん、ほれぼれするくらいべっぴんやなあ。ほな、行こか」
「どこへ?」私はソファにへたり込んだまま訊いた。
「ご主人。借金返済のためのお仕事や言うたやろ」
「い、一緒に行ってもいいですか」
「あかん。今日は先さんに話を通してへんから。次は連れてったるわ」
玄関先で妻にコートを着せてやるFは、私よりも夫然としていた。
妻は振り返ることなく出ていった。
「今夜は遅くなるで」
Fの最後の言葉が、私の脳裏に突き刺さっていた。
またまた中途半端なところで終わってしまい、申し訳ありません。次の土日で悪夢の正月を総括した文章をしたためたく思います。どうかよろしくお付き合いくださいませ。では、後日。
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