[1612] 贖罪22 投稿者:逆瀬川健一 投稿日:2002/07/23(Tue) 22:05
【#22 空白】
九月に入ったばかりの頃、部長からあるプロジェクトの立ち上げが発表された。エコロジー企業のコンベンションを二月に大阪で開催するというもので、私は折衝担当者として特別チームに出向することになった。参画予定企業は大小とりまぜて約二百社。この手のイベントの成否をにぎる鍵は折衝だ。部下三名を得た私は、さっそく折衝のためのスケジュールの作成に取りかかった。一週間後には、北は北海道から南は沖縄まで散在するクライアントに赴かなくてはならない。
「そう。だったらしばらく秘書をおやすみさせてもらう?」
プロジェクトの件を告げると、妻はすぐに言った。
「けんちゃんの留守に、勝手なことはしたくないし」
妻の言葉が意外だった。私がいようがいまいが、Sとの秘書契約が継続するのは当然だと思っていたからだ。
「べつに勝手なことやあらへんやろ」私は部屋着に着替えて食卓についた。「内容はともかく、仕事は仕事なんやから」
一拍おくれて、妻の顔に笑みが広がった。「新しいことを始めたいんやて、Sさん。けんちゃんが出張やて知ったら、帰してくれへんかも」
「おれはええよ、それでも。一人で留守番してるより、はるかにましやろ。おれかて、おまえがどう変わるか楽しみやし」
実際、ハワイの随行以来、これといった調教を妻は受けていない。Sの年齢と多忙さを考えると、ハードな調教がそうそう行えるわけはない。こんなものか、という思いが私の中に生じはじめていた。荒っぽいところはあったが、マルチ商法の元締のFが誘ってくれた世界のほうが私たち――いや、私にとっては刺激的ですらあった。
しばらく間を空けたほうがいいかもしれない。“新しいこと”がどのように妻を変えてくれるのかを楽しみに、仕事に没頭してみよう。
その夜、私はSにメールを書いた。しばらく仕事に忙殺されるため、妻をぜひにも帰宅させるにおよばないこと、調教内容に関して逐次報告にはおよばないこと。そして最後に、万一のことを考えて「先生のこれまでの調教スタイルを顧みますと、妻をおまかせして何ら不安はございません。なにとぞよろしくお願いいたします」と、やわらかく釘をさしておいた。
翌週から、私はほとんど自宅に帰れなくなった。たまに帰れても、妻はつねに不在だった。
ビジネスホテルに帰り着き、寝酒を呑んでいるときなどに、ふと妻の顔が浮かぶことがあった。無性に声が聞きたくなって電話してみるのだが、いつも妻はいなかった。Sにメールを入れてもよかったのだが、どうせからかわれるのがオチだ。そのうち酔いが回り、私は寝てしまう。そんな日々が、二か月ちかく続き、折衝の仕事はひととおり終わった。
明日、自宅に帰る旨のメールをSに入れ、私は簡素なホテルでひとり祝杯を上げた。
午前中に大阪に戻り、半日かかって報告書を仕上げた。プロジェクトを仕切る部長のパソコンにファイルを送ると、お役ご免だ。今日は金曜。妻と外食をするのもいい。いや、ケータリングサービスもいいかもしれない。
会社を出てすぐに妻の携帯電話へ電話した。
コール音を十回数え、通話スイッチを押そうとしたとき妻の声が聞こえた。
「もしもし」
ひさしぶりに聞く妻の声は新鮮だった。あわてて電話を取ったのか、息が弾んでいる。つきあい始めた頃の初々しい妻を連想した。
「おれや。ついにドサまわりが終わったよ。今、社を出たところ。どっかで待ち合わせてディナーでもどう?」
「………」
「残業でもあるんか?」
「今夜は人妻奴隷としてのお披露目があるの」
私は絶句した。
(人妻奴隷……やて?)
アダルトビデオかピンク映画のタイトルのような単語を平然と口にする妻に、私は激しい違和感を抱いた。この二か月で、おまえはどう変わってしまったのか。何をされたんだ。訊きたいことが一斉に脳裡に噴出した。だが、私は言葉の接ぎ穂が見つけられないでいた。
「逆瀬川くんか。仕事、たいへんだったね」Sの声だった。「こっちも今日に合わせるために必死だったよ」
「ああ、どうも。今日に合わせるって、どういうことなんですか」
「来てもらえればわかるから」Sは楽しげな含み笑いをもらした。「会場ではアルコールと軽食しか出ないから、何が腹に入れてきたほうがいい。なにしろ長丁場だしね」
会場と時間を告げると、Sは電話を切った。
その料亭は、中央区のオフィスビルのはざまにあった。午後七時前だというのに暖簾も下がっていない。生垣と玄関先の盛り塩がなければ見落とすところだった。
格子戸に手を伸ばしかけたとき、内側から勢いよく開かれた。ダークスーツに身を包んだ短髪の青年が掬い上げるような目を向ける。
「こ、こ、こんばんは。逆瀬川と申しますが」男の体から立ち上る異質な雰囲気に圧されながらも名乗った。「S先生から、こちらに伺うようにと言われまして」
男の顔に、一瞬にして愛想笑いが広がった。「どうぞ、こちらへ」
長い廊下の左右に襖が並んでいた。磨き込まれた廊下に、往事の繁盛ぶりの名残を見ることができる。かすかに湿り気を帯びた空気に、時間の堆積が放つ体臭のようなものが混じっていた。
「気をつけてください。狭いですから」
男は、階段の脇に立ち、先に行くようにうながした。
階段の上からは、中年以上とおぼしき年配の低い声が談笑している。悪い予感が、階段を一段上るごとに高まる。ここは鉄火場に違いない。親分衆の前で賽子が舞い、壺が振られる。動悸が激しくなるのがわかった。もう引き返せないのか。いったいどこで狂ってしもたんや!
階段を上りつめた私は、目の前の光景がにわかには信じられなかった。
二階は板張りの大広間だった。部屋の奥には小さいながらも能舞台がしつらえてある。能舞台に向かって椅子が十数脚置かれ、その半分が先客に占められている。談笑していた男たちは、私の存在に気づくとにこやかに会釈した。ぎくしゃくしながら、私も礼を返した。
いつの間にか階段を上ってきていた案内役の男が壁際の椅子を勧めた。
「お飲物は何がよろしいでしょうか」
水を、と答えるのが精一杯だった。先客の幾人かには見覚えがあった。関西を代表する企業の経営者だった。もちろん面識はなく、経済誌や新聞で顔を知っているだけだが。
午後七時、椅子はすべて埋まった。私も入れて総勢十二人。男九人、女三人。だが、Sと妻の姿はその中にはなかった。
室内の照明が落とされた。能舞台が薄暗がりの中に浮かび上がる。
五色の揚幕が跳ね上がり、三人のダークスーツ姿が橋掛りから鏡板の前へと移動した。本式の能楽堂よりすべてのサイズがひとまわりほど小さいため、鏡板に描かれた松が男たちの背後に隠れてしまった。
客たちのおしゃべりがやむのを見計らったように、初老の男が橋掛りをしずしずと進んだ。六十を超えているが、背筋は伸び、上等なスーツに着負けしてはいない。本舞台の中央に立つと、客に向かって深々と腰を折ったのちに口上を述べた。老人の挨拶から、この集いの概要をつかむことができた。
会場、会員とも固定されていないこと。また、不定期に開催され、年に一度のこともあれば三度行われることもある。この会に関しては口外厳禁であること。そして最後に「この能舞台は、さる好事家が昭和初期に造ったものやそうです。銀行に渡って取り壊される寸前、私が買い取りました。能狂言の素養はありませんが、このような会には風情があってよろしゅうおまっしゃろ。まあ、今夜は浮き世の憂さを忘れて、せいぜいお楽しみください。以降の司会進行はS先生にお願いしております」と言って頭を下げた。
老人と入れ替わりにSが舞台に立った。ユーモアをまじえたなめらかな口舌で客の緊張をほぐし、本題にずばりと入った。
「一盗、二婢、三妓、四妾、五妻と申しますが、やはりわれわれの劣情を刺激してやまないのは人妻です。これは一般的な色事だけでなくSMにも共通する原理ですな。おっと、申し訳ない。ここにいらっしゃるみなさんは、先刻ご承知でした。今夜は、私の“人脈”から募りました人妻奴隷を、みなさんにご覧いただきます。さらには品評会、試用もお願いいたしますので、じっくりお楽しみください。では、奴隷一号、こちらへ!」
全員の目が揚幕に吸い寄せられた。
私は歯を食いしばった。人妻奴隷とは、こういう趣向だったのか。これが調教の到達点なのだろうか。密室で数時間かけてなぶることではもはや刺激は得られないのか。嗜虐と被虐が絡み合う底知れぬ深みに、私は身震いした。この二か月の空白が、妻を完全に変えてしまったのだろうか。品評会? 試用? 人間に対してこのような単語が当然のように使われる場があることじたい、理解できない。
揚幕が上がった。女が現れた。妻ではなかった。
初冬だというのに、黒のタンクトップに同色のショーツという姿だ。年格好は四十半ば。年齢に似合わず、たるみのない異常に巨きな乳房が黒い布地を押し上げている。その頂には固くしこった突起が浮き出ていた。
Sは中年女の後ろ髪を掴み、客席に向けて顎を上げさせた。派手な顔立ちだが、容色は衰えはじめている。だが、荒淫の蓄積による妖しい色香がそれをおぎなって余りある。
「さる新進電子メーカー社長の細君であり愛奴のR子です。十年前から豊胸術を受け、現在では百二十センチを達成。この見苦しい胸を揺すりながら夫君のビジネスをサポートしているとのことです。さあ、ゲストの皆さまに、そのいやらしい体をお見せしなさい」
しばしのためらいののち、R子は黒いショーツを脱いだ。陰毛はきれいに剃られ、恥丘のかなり上部にまで切れ込んだ秘裂からクリトリスの突起が見えた。
「ほほう。下よりも胸を晒すほうが恥ずかしいようですな」
Sの揶揄に、客席から笑い声がわき、「牛みたいな乳を見せてみろ!」という野次が飛ぶ。
唇を固く結ぶと、R子は意を決してタンクトップを脱ぎ捨てた。
美容整形医の腕がよほどよいらしく、双乳は自然なフォルムを保っている。へたな豊胸術にありがちな固さやいびつさはない。羞恥心からくる細かいふるえが両の乳房をゆさりと揺らす。直径七、八センチはある褐色の乳暈の中心に、大人の親指大の乳首が勃起していた。
客席に感嘆の溜息が広がった。
Sの指示を受けた若い衆が、天井の梁にロープを投げ、手際よくR子を吊った。両手首と爪先だけで体重を支えるR子の全身にうっすらと汗が浮いた。ハンドボールほどの大きさに見えた乳房が、吊りに強調されてサッカーボールほどに見える。
「縛りやのうて、吊りで来るとは」私の前に座る初老の男がうなった。「Sさんは心得てはるわ」
「では、奴隷二号をご覧いただきましょう」
ゲストたちの視線が揚幕に注がれた。
トレーナーにチノパンツ姿の男が現れた。三十代前半。年輩者の目立つ客席に向かって小さく頭を下げる姿が初々しい。堅気の会社員にしか見えない。
橋掛りを数歩踏み出した男の右手から伸びたロープがぴんと張った。まるで犬のリードのように、男が邪険にロープを引っ張ると、跳ね上げられた揚幕の下から全裸の女が現れた。いや、正確に言うと、ロープを結わえられた革製の首輪、乳房をくびり出す麻縄を身につけていた。
Sは男を手招きしながら、客席に険しい顔を向けた。
「許されざる関係に溺れるK美は、五十一歳。夫は商社マンで、東南アジアに赴任中です。そこの彼とは不倫の関係ですが、ただの不倫じゃない。家庭内不倫というか、近親相姦というか……」
理解できない、というふうに眉をひそめてかぶりを振った。
「つまり、血を分けた息子さんと十八年間にわたって淫らな関係を持っているのです。信じられますか、みなさん。この青年が十二のとき、母親のほうから誘惑したんです。だが、長男のほうが一枚も二枚も上手だった。果たして、今では息子の愛奴になりさがったというわけです」
舞台の中央に立つ青年がリードを手繰り、母親を自分の前に押し出した。
「Tくん、今日はありがとう」Sが青年の肩をやわらかく叩いた。「これまで、細君を息子と交わらせるご趣味の方は何人かご登場願ったが、息子本人が奴隷でもある母親を連れてきたことはない。この会の歴史に残る。ありがとう」
客席から拍手が起こった。
「それでは、この恥知らずな母親がどのようにきみを誘惑したか、そして、きみがどのように調教したのか聞かせてもらえるかな?」
「お言葉ですが、それは私の任ではありません。雌犬こそ、それを語るにふさわしいと思いますが」
Sは哄笑した。「もっともだ。わかってるねえ、きみは」
やれ、という青年のひと言でK美はその場に正座した。うなだれ、肩を小刻みにふるわせていたが、リードのストラップでうなじを打擲されて顎を上げた。真一文字に引き絞られた唇がわななき、涙の筋が頬を濡らしていた。
それから約一時間ほどかけて、近親相姦から実の息子の奴隷となるまでの一人語りが続いた。ゲストたちは私話を交わすことなく淫靡な告白に聴き入っていた。私はといえば、妻がどのように舞台に引っ立てられどのような玩弄を受けるのかということばかりが気になり、K美の話に集中できなかった。
K美は語り終えると、顔を上げたまま号泣した。
「罪深い私を、厳しく罰してくださいませ! 夫もうすうす感づいていて、赴任先で現地の女性と暮らしています。Tご主人さまは、もう私の体に飽きたと明言されております。ご主人さまに見放されたら、もう行く当ても暮らすあてもございません。ご主人さまに私の誠意をご覧いただくために、どんな罰にも耐えます。どうか、私に厳しい折檻をお願いします」
ここまで人間、堕ちることができものだろうか。商社マンの妻として家庭を守り、すでに老後の人生設計も視野に入れて生活を充実させているであろう女が衆人環視の中で吐く言葉ではない。息子の手によって、肉体的な反応ばかりでなく精神も完全に調教されている。こんなことがありうるのだろうか。
だが、これは現実だ。現に、私の妻だってSの調教に染まってしまい、体のあらゆる部位で男や女の性欲処理を行っている。痛覚を快感に、屈辱を愉悦に、いとも簡単に変質させる回路が日々、太く複雑になっていたではないか。
『こっちも今日に合わせるために必死だったよ』。
夕刻のSの声がよみがえった。
この二か月間で、何かが大きく変わったのだ。妻の精神を改造し終えたということか?
こんなことなら、調教の予定と経過の報告をSに要求すべきだった。全面的に妻を預けるなんて、安易なことをすべきではなかったのだ。約六十日間の空白がもたらした結果が、もうすぐ明らかになる。
息子にリードを曳かれ、四つん這いで舞台の奥に移動する女のみじめな姿を視野の端でとらえながら、私は来るべき衝撃にそなえて固唾を呑んだ。
まとまった時間が取れると、ついつい長文になってしまう悪い癖が今回も出てしまいました。掲示板を利用されている皆さま、ひいては管理人さまにはご迷惑をおかけするかと存じますが、なにとぞご容赦を。
初めてお邪魔させていただいてから、すでに一年。あと一、二回で、私の告解を終わらせていただきます。よろしくお付き合いくださいませ。では、また後日。
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