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北原夏美 四十路 初裏無修正

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卒業 3

BJ 7/17(火) 22:30:28 No.20070717223028 削除

 去年の夏。
 休暇をとった私は、妻を伴って岐阜県奥飛騨へ出かけました。

 ―――妻を他の男に抱かせる。

 そんな、背徳的な企みを抱いて。
 妻は私の計画を知らず、いつものように言葉少なに、しかし嬉しそうに私とともに家を出たのでした。
 そんな妻の様子に心を痛めなかったわけではありません。けれども、当時の私は自分の企みに憑かれていました。
 物静かで、時として退屈なほど禁欲的な妻が、他の男の手によって女としての未知の素顔を露わにする。そんな瞬間を、どうしても見てみたかったのです。
 やがて―――私の願望は現実のものとなりました。
 それも、私の想像を遥かに超えて。
 妻は―――


 妻は薄闇に蒼白くけぶる脾腹を喘がせて、私の指の玩弄に耐えていました。しっとりと吸いつくような肌の感触に魅了されながら、私はそろそろと掌を這わせ、均整のとれた妻の乳房の頂点に指を触れさせました。小さく尖った薄桃色の乳首を親指の腹でやんわり刺激すると、妻がかすかに呼吸を乱すのが分かりました。
 乱れた髪がシーツの海に散らばり、上気した妻の頬にわずかに貼りついています。
 そんな姿を私の目に晒しつつ、喘ぐ胸を小さく隆起させ、必死になって声を殺している妻。その顔に口を近づけて、“そんなに我慢しなくていいんだよ、ここには二人だけしかいないんだから”と囁きかけたくなりながら、しかし私の頭はまったく別の情景も思い描いていました。
 それは山深い古宿の一室。素朴な畳の香り。近くを流れる渓流のせせらぎ。窓の外の深い闇―――
 静けさの合間を縫うような吐息。絡み合う身体。肌の熱気。汗。女の細腰を掴む男の太い腕。のけぞる背中。肉のぶつかる音。乱れ、跳ねる髪。紅潮した顔。歪む口元。
 男の腰が一撃を加える度、組み敷かれた女の肢体が大きく震え、啜り泣きのような喜悦がその口から洩れ聞こえます。ぐずぐずと崩折れてしまいそうな腰は、しかし物欲しげにくねり、次の刺激を求めているのです。
 女は私を見ています。その意識は半ば飛んでしまっているようで、男に突き入れられる度ごとに、虚ろな視界が揺れ、その焦点を失いかけます。しかしそれでも女は私を見ているのです。私を見つめているのです。
 私は思わず悲鳴をあげたくなります。もうやめてくれ、と叫びたくなります。しかし、それは出来ません。何故なら女と同じくらい、私も昂ぶっているからです。真実は肉体に宿り、言葉は虚偽に過ぎないという真実を私は思い知ります。
 女の発する声は、次第に高く、透きとおっていきます。苦悶のためでなく、ぎゅっと寄せられた眉根。唇の端から垂れたよだれがきらきらと光っています。やがて女の身体はがくがくと揺れ始め、カタルシスの到来を予感させます。私を見つめる女のまなざしに怯えのようなものが走ります。私は何も言えません。声を発することすら封じられたまま、食い入るように女を見つめています。
 ついにそのときがきて、女は昇りつめます。大きく喘ぐ胸が盛り上がり、男のものを飲み込んだ腰が蠢きます。咥えこんだものをきつく締めつけるその中の動きまでが見えるようで、私ははっと息を呑みます。
 高みを極めた瞬間、女は一声高く長啼きします。ぎゅっと寄せられていた眉根が緩み、汗ばんだ顔がさっと色づきます。その視界は今度こそ焦点を失い、視線は宙に浮きます。今の女にはもう何も見えていないのです。快美だけが彼女の心身を攫い、満たしています。この世の何もかもから解放されたようなその表情。苦悶から深い愉悦へと移り変わってゆく女の変化が、さながらスローモーションのように、どこまでも克明に、私の目には見えているのです―――


 ・・・そこで唐突に我に返った私は、身体の下で妻が不思議そうに私を見上げているのに気づきました。
 その無垢な瞳。
 この妻が、たった今まで幻視していた女と同じ女だという事実に、私は慄然とします。
 あれはたしかにあった出来事なのです。それなのに私は、いまだにその事実を受け止めきれてはいません。しかし、忘れることも決してありません。
 妻をこの腕に抱きしめるとき、私はいつもあのときの情景を思い出すのです。それは引きずりこまれるような感覚です。私は腕の中の妻を愛しながら、あのときの妻を想い、知らず知らずのうちに我を忘れているのでした。

 それはどうしようもなく激しく、そして暗い昂ぶりでした。

「どうかしたんですか?」
 真顔で黙りこくっている私に、妻が心配そうに声をかけました。
 妄念を振り払うように、私は強いて笑みを浮かべました。
「ああ、ちょっと考え事をしていた」
「こんなときに・・・」
「ごめんごめん、瑞希をこんな状態にしておきながら放ったらかしにして悪かった」
 真面目に言ったのですが、妻はそれを自分に対するからかいと取ったのか、少し顔を赤らめて「別に私は・・・」と呟きました。
 私は妻の横に寝転がり、その腰をぐっと引き寄せて、寝巻きの下に手を忍ばせました。慌てたように抗う動きを見せる妻に委細構わず、私の手は寝巻きの下の下着のさらにその下へ入り、柔らかい毛叢をさすりました。繊毛も、手の甲に張り付く布も、しっとりと濡れていました。
「これで言い訳出来ないだろう」と、口に出したわけではありませんが、妻はそんなふうに言われたように感じたのか、羞ずかしげに小さく呻いて、私のほうに向き直り、私の腕にしがみつくようにして、肩口に顔を埋めました。さらりとした黒髪が私の顎に触れます。
 私の指は自然と毛叢の奥の閉じ目へと伸びました。湿り気を帯びたそこの、温かい肉の感触が私の指を包みます。そこに指が達した瞬間、私の腕に顔を押しつけたままの妻の頸が、くんと動き、零れた吐息が腕をくすぐりました。妻はそのまま股を閉じ、私の手はすべやかな太腿に挟みこまれます。同時に、肉の輪がきゅっと私の指を締めつけるのを感じました。

 そのままの格好で、私たちはしばし静かな時間を過ごしました。
 指の先に妻の熱を感じながら、私は傍らの妻を見つめ、彼女の呼吸の音に安らぎを感じていました。
 幸せ―――という言葉を想いました。
 そう、たしかにそのときの私は幸せだったに違いないのです。仕事も上手くいっていたし、何よりもこうしてすぐ傍にいつも妻がいてくれる。私と彼女の安息を妨げるものは、何もない。
 何もない、はずでした。

 しかし―――

 だらだらとした安息の日々の奥には、抑えようとして抑えきれないものがひっそりと蠢いているのを私は常に感じていました。それは、本来なら手を出してはいけない禁断の果実を口にしてしまった者だけが感じる、憂鬱な衝動。

 決して色褪せてくれない、記憶―――

「何を考えていらっしゃるんですか?」
 気がつくと、妻が顔を上げて、私の顔を見つめていました。
「今日のあなた、どこか変ですよ。すぐにぼうっとして」
「・・・暑かったからかな」
 そう―――
 きっとこれは、暑さからくる気の迷い。
 何しろ、もう夏は近いのだから―――

「瑞希は今、幸せなのかな」
「どうしたんですか、いきなり」
「別に・・・ちょっと聞きたくなって」
 黒々とした瞳を大きく開き、妻はしばし私を見つめていましたが、やがて真顔のまま、「幸せですよ」と答えました。
「本当に・・・いつまでもこのままの日々が続けばいいと思っています」
 その声は、心底そう願いながらも決してその望みが果たされないことを知っているかのように儚げに響いて、私は少しどきっとしました。

 妻は―――あのときのことをどう思っているのだろうか。

 今まで何度となく考えたその疑問が、また蘇りました。
 あの日以来、私たちの間で、奥飛騨の宿での出来事を口にしたことはありません。それは二人の間のタブーでした。

 私の心が妻を裏切ったこと。
 妻の身体が私を裏切ったこと。

 そのすべてに蓋をして、なかったように振る舞って、私たちはようやく安定を得たのです。それは表層的な安定かもしれません。私の心の奥底であのときの出来事がいつまでも消えずに揺らめいているように、妻もまた忘れてはいないのでしょう。妻は決してそのことを私に悟らせようとはしませんが。
 夜の営みの中で私は妻を抱きながら、時々狂おしいほどそのことを意識します。何も言わない妻の耳元に口を近づけて、囁いてみたくなります。
 まだ覚えているのかい―――と。
 あのときのことを。
 あの悦びを。
 そして―――あの男を。

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