BJ 7/26(木) 18:15:21 No.20070726181521 削除
「――――――」
あまりにもあっさりと告げられた赤嶺の言葉に、私は一瞬絶句しました。
幾ばくかの時間を置いて、ようやく私は気を取り直します。
「・・・お前、誰に向かってそんなことを言ってると思ってるんだ」
「お前だよ。お前しかこの場にいねえじゃねえか」
平然と言って、赤嶺はまた煙草に火を点けました。
「言っておくけど、俺が話してるのはただの男としてのお前だ。一家の亭主としてのお前に対してじゃない」
ふうっと紫煙を吐きながら、赤嶺は底の見えない瞳で私を見つめました。
その唇が、動きました。
「お前は心の底では、奥さんが俺に抱かれるのをもう一度見たいと思っている」
断定的に語る赤嶺の口調には、一切迷いというものがありませんでした。
「そして、俺は奥さんを抱きたい。お互いの利害は一致してるんだ。他に何の問題がある?」
「・・・瑞希本人の意思はどこへ行った? あいつはモノじゃないんだ。むしろ人一倍傷つきやすいし、今だって―――きっとひどく哀しんでる」
言いながら、私の胸はずきりと痛みました。
「そして―――俺は瑞希の夫なんだ」
「偉そうに。そもそも最初に、奥さんをモノみたいに俺に抱かせようとしたのはお前だろうが」
「だからそれも・・・後悔してる」
「半分だけの後悔だろ。もう半分は獣みたいに欲情してるんだ。まあ、俺にはそっちのほうがよほど人間的に見えるがね」
赤嶺の言葉のナイフは今度こそ私の真実を鋭く切り裂いて、私の言葉を奪いました。
「それに奥さんが哀しんでいようが、なんだろうが、そんなことは結局関係がないのさ」
―――独り言のような、その口調。
「そんなつまらないことは、すぐに忘れさせてやるよ」
悪魔じみた色気を感じさせる目が、私を見下ろしていました。
「死ぬほど悦ばせてやる。変えてやるよ。奥さんをもっともっと別の、新しい女に」
「――――――」
「それはお前にとっても、奥さんにとってもいいことのはずさ」そう言って、最後に赤嶺は悪戯な笑みを浮かべました。「―――きっとね」
赤嶺の部屋を出て、自室へ戻ったのは何時ごろのことだったでしょうか。
「―――瑞希?」
姿の見えない妻に呼びかけると、隣の襖が開き、妻が姿を現しました。
「もう、寝ていたのか?」
「ごめんなさい。ちょっと気分がすぐれなくて」
「そうか・・・それなら、横になっていたほうがいい」
私が言うと、妻は「いえ、もう大丈夫です」と言って、卓の傍に正座しました。
「お茶をいれましょうか? それともお酒・・・?」
「お茶でいいよ」答えて、私も妻の正面に腰掛けました。
こぽこぽ、と急須に湯の注がれる音が、静かな部屋に響き渡ります。
袖から伸びた妻の細い腕が湯飲みを手に取るのを見つめながら、私は何とはなしに息苦しい想いでいました。
「煙草を吸ってもいいかな?」
「ご自由に・・・」
弱気な声で伺いを立てる私、妻はいつぞやのように咎めるでもなく、静かな声で答えて、茶の入った湯飲みを差し出しました。
煙草と茶で私が一服している間、妻は無言で正座したまま、じっとしていました。細面の顔は、彼女が先ほど言ったとおりに気分がすぐれない様子で、鬢の毛がわずかにほつれて頬にかかっていました。
そんな妻の様子を窺っているうちに、ふと妻は口が開くのが見えました。
「赤嶺さんと・・・お話されていたんですか?」
努めて穏やかにしようとしている声の調子が、かえって妻の抱える不安の強さを感じさせました。
「―――うん」
私は答えて、短くなった煙草を揉み消しました。
「それで・・・赤嶺さんはどうしてこちらへ・・・?」
「いや―――それはさっき赤嶺が自分で言ってた通り、仕事先の都合でたまたま休みが取れたから、というのが本当らしいけど」
―――奥さんを抱きたい。
―――もう一度。
「そうですか・・・」
呟くように言い、妻は膝の上にそっと両手を重ねました。
鶴のようにうなだれた様子で、じっと何かを考え込んでいるふうの妻。
そんな悄然とした妻の姿を、見つめながら、私は。
―――抱き心地も良かったしな。
―――あのときに出す声もよかった。
私の内側には。
―――奥さん、今でもあんなふうに啼くのか?
―――まったく羨ましいよ、お前が。
あの―――声が、言葉が。
―――誰よりも望んでいるのはお前なんだ。
耳鳴りのようにずっと響いていて。
―――死ぬほど悦ばせてやる。
―――変えてやるよ。
変わる―――
「もう、私を偽ることだけはやめてくださいね」
不意の妻の言葉に、私の意識は現実に引き戻されました。
「え? 何だって」
妻はすっと背筋を伸ばし、私のほうを向いていました。
「去年のような想いは、繰り返したくないんです」
私を見つめる、澄みきった瞳。
「二度とあんな隠し事はしないで」
その瞳がゆっくりと潤んでいくのが、私の目に映りました。
「私はこのままでいい。このままがいいんです」
私は無意識に妻の名前を呼んでいましたが、その声は小さすぎて彼女には届かなかったようです。
「どうして・・・駄目なんですか。このまま二人で静かに暮らしていけたら、それだけで十分なのに」
妻の声の調子は変わらず穏やかなままなのに、この目に映る妻の身体は次第に小さく、かすかになっていくようでした。私は咄嗟に卓を脇にどけ、膝で這って妻のもとへ行きました。
「すまない、瑞希。本当に」
妻の肩を抱き、無意識に口に出した私の謝罪―――
あの瞬間に告げたその言葉がなぜ、すまなかった、ではなく、すまない、だったのか、後々になっても、私は考えずにいられませんでした。
この時点でその意味を正確に感じ取っていたのは、おそらく妻一人だったのでしょう。
だからあのとき、肩を抱く私を振り返って、彼女は言ったのです。
「やっぱり―――私だけでは駄目なんですね」
囁くようにそう言って―――妻は泣きながら微笑みました。
消え入りそうな囁きの、その意味が分からないままに、しかし私は言葉を失いました。
月の綺麗な、静かすぎる夜のことでした。
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