BJ 7/30(月) 19:30:20 No.20070730193020 削除
「久しぶりに泳ぐと、やっぱり相当疲れるね」
パラソルの影のもと、シートの上に座った私は、濡れた脛に付着した砂粒をざらざらと手で払い落としながら、ため息まじりにぼやきました。
「もう年だな」
「普段、あんまり運動なさらないから」
「そう。たしかにしない。駅への行き帰りの道を歩くくらい。でも日本のサラリーマンの電車通勤というのは、あれはあれで相当しんどいものだよ」
わけの分からない言い訳をする私に、「そんなものですか」と相槌を返しながら、妻は両腕を前に伸ばして表に裏に眺めています。
「どうした?」
「いえ、これは日焼けしてしまいそうだと思って」
「当然だよ。夏に海で泳いだら焼ける。瑞希も少しくらいは日に焼けたほうがいい。健康的になる」
「まるで、普段の私が病人みたいな仰りようですね」
「そんなことは言っていない」
そこで妻は唐突に黙りました。
「何? どうかした?」
「いえ・・・実は私、病気、というわけではないんですけど・・・」
「どこか身体の具合でも悪いのか?」
「そうじゃなくて・・・・」
奥歯にものの挟まった言い方をする妻に、私はいっそう心配になりました。
「焦らせないでくれよ。何なんだい」
「実は・・・・先月から、月のものが・・・」
晴天の霹靂、とはこのことであり、呆気に取られた、とはまさに今の私の表情そのものであったことでしょう。
「―――ちょっと待ってくれ。それは本当なのか」
「嘘です」
がっくりと力が抜けました。妻は申し訳なさそうな表情で、「ごめんなさい」と言いました。
「ちょっと冗談を言ってみたくなって」
「瑞希が冗談を言うのを初めて聞いた。いやいや、そうじゃなくて、何も最初のジョークをそんなたちの悪いものにすることはないだろう。それにしても、どうしたんだ? 今日の瑞希はどこかおかしいぜ」
私の台詞に、妻は一瞬不思議な表情で私を見た後、にこっと笑いました。
「そう、おかしいんです。今日の私は」
「・・・どうして?」
私の質問には答えず、妻は吹きつける潮風に向かって瞳を閉じました。
「―――でも」やがてぽつりと妻は言いました。「さっきの冗談が本当だったら良かったのに」
「子供が・・・欲しいの? でも、今まで一度もそんなこと」
「そうじゃないんです」妻は笑って首を振りました。「そうじゃないの」
何が「そうじゃない」のか私には分かりませんでしたが、妻の様子が明らかに普段と違うことだけは分かりました。
そして、彼女が普段と違っているその原因なら、分かりきっています。
だから―――私は何かを言わなければならないはずでした。
けれども、そのとき―――
「相変わらず仲が良いことで、羨ましいね」
背後から聞きなれた声がして、振り返ると水着姿の赤嶺が立っていました。
「独り者の俺には目の毒だな」
「お前、いつから、そこに」
「ここには朝から来ていた。お前と奥さんの姿を見つけたのはついさっきだけどね」
体格の良い赤嶺の浅黒い身体は、夏の陽を受けてつやつやと光っています。
赤嶺は「奥さん」のほうに向き直りました。
「よくお似合いですよ、その水着」
日に焼けた顔がふっと笑み、そこだけ白い歯が見えました。
赤嶺の登場した瞬間から、妻は浮かべていた微笑を消し、きゅっと唇を閉じ合わせていましたが、昨日のように黙りこんだりはしないで、「ありがとうございます」と小さく言葉を返しました。
赤嶺は苦笑するような表情を見せつつ、ずかずかと私たちのパラソルに入ってきて、シートに腰を下ろしました。
「お前、一人で海に来て淋しくないか?」
図々しい男に復讐する気持ちで悪態をつくと、赤嶺は涼しい顔で「せっかくたまの休日にゆっくりしに来てるんだぜ。そんなことかまってられるかよ」と言い、私を見つめました。
微笑んだままの、その唇が動きました。
「―――なんたって俺は、楽しむためにここに来ているんだからな」
私は赤嶺から視線を外しました。
ひどく、喉の渇く心地がしていました。
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