BJ 7/31(火) 17:26:50 No.20070731172650 削除
それっきり赤嶺は黙り込み、私も妻も言葉を発しなかったので、三人は海に向かって並んで座したまま、しばし不思議な時間を過ごしました。
私の左には妻が。
そして私の右には、妻を抱きたいと言う男、かつて妻を抱いた男が座っていました。
それはシュールで、滑稽で、不自然極まりない光景でした。ただこうしてじっとしているだけで、私の肌は汗ばみ、心臓の鼓動はじわじわと早まっていくようでした。
目の前に広がる砂浜と海は相変わらず平和そのもので、人々の笑いさざめく声がそこかしこに響いています。
夏、でした。
そして私にとっての、夏の記憶は―――
ふと、赤嶺が立ち上がりました。
「お前、もう泳がないの?」
海パンの尻を手で払いながら赤嶺の言う声に、「俺はもういい。さっき十分泳いだ」と答えると、
「ちっ。やだねえ、これだからロートルは」
同い年のはずの赤嶺は言い、次に妻を見ました。
「奥さんはまだ若いから大丈夫でしょ。泳ぎにいきましょう」
「私は―――」
妻は私を見ました。先ほどまで奇妙にはしゃいで見えた妻も、赤嶺が現れてからは、普段の気弱な調子に戻ってしまったようでした。
「いちいち旦那の許可を取る必要はありません。江戸時代じゃないんだから」
そう言って、赤嶺は不意に妻の腕を取りました。妻は驚き、腕を引こうとしましたが、赤嶺の手がそれを許しませんでした。
「さ、行きましょ」
妻はもう一度私を振り返りました。
その顔を見つめるうちに―――
何かが、私の中で、ゆっくりと動きました。
私は―――妻にうなずいて見せました。
その瞬間、妻の唇から吐息が洩れたのが聞こえました。赤嶺に引っ張られるようにして、妻は立ち上がりました。彼女の全身から力が抜けてしまったようでした。
赤嶺に手を引かれながら、渚へと歩んでいく妻の背中。その真っ白な背肌と肩幅の広い赤嶺の朝黒い背中が、不思議なほど好一対に見えました。
白と黒。
柔と剛。
軟と硬。
その二つの身体が絡み合い、一つに繋がったあの夜が。
決して忘れることの出来なかったあの記憶が。
私の脳裏で、ふたたび、黒い炎のように揺らめいていました。
その熱はちりちりと臓腑を焦がし、心を灰片に変えていくというのに―――
危うい炎からどうしても逃れられない私は、夏の夜に舞う蛾のようなものです。
火の中へ、火の中へ。
その誘惑が―――
―――変えてやるよ。
誘惑―――
そして今―――渚に立つ妻と赤嶺の後ろ姿。
あの夜、白い肢体を抱き締め、思うままにしならせた赤嶺の太い腕が伸びて、妻の撫で肩に触れるのが見えました。
私は息を吐きました。長く、長く。妻は顔をうつむけ、赤嶺にやんわりと肩を抱かれたまま、ゆっくりと海に入っていきます。
太陽は中天からわずかに傾き、二人の影は私のいる砂浜へ向かって伸びていました。
「もう、戻るのか?」
夕刻の気配が漂う前にパラソルを畳み出した私に、赤嶺が声をかけました。妻はビニールシートにぺたりと腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めていました。
「ああ。お前は?」
「俺はもう少し泳いでいく」
「元気だね、お前も」
「まあな。どっかの年寄りとは違うさ」赤嶺はそんなふうに憎まれ口を叩き、また海に向かって歩きかけ、数歩も行かないうちに振り返りました。
「お前と奥さんが泊まってるのって萩の間だよな?」
「・・・そうだけど」
「今夜、遊びに行くわ」
いつものようにあっさりと告げ―――
返事も待たずに赤嶺はさっさと歩き去っていきました。
私はしばしの間、その小さくなっていく背中を眺めました。
振り返ると、妻は立ち上がって私を見ていました。私はその視線から目を逸らし、何事もなかったように無言でパラソルを畳み終え、立ち尽くしている妻の裸の肩をぽんと叩いて、「行こう」と言いました。
かすかな潮風が、妻の濡れた黒髪を静かになびかせていました。
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