BJ 8/6(月) 03:52:43 No.20070806035243 削除
窓から差し込む陽光で、私は目覚めました。
傍らに目をやると、妻の姿はありません。布団に手をあててみても、そこに感じられるはずの人肌の温もりはすでに絶えていました。
私は起き上がりました。
身体の節々が、痛んでいました。
昨夜の自分。そして昨夜の妻。そのすべての記憶が蘇り、私は無意識に胸の辺りを手で押さえました。
眩しいほどの日の光が、昨夜ここで繰り返された私の罪を現実の絵に変えていました。
「瑞希?」
名を呼びながら襖を開けましたが、そこに妻の姿はなく、私の呼びかけに答える声もありません。
時計を眺めると、時刻はまだ早朝です。あれからまだ数時間しか経過していない、その事実に私は今さらながら慄然としました。
そして、これから、私たち夫婦にのしかかってくるはずの時間の重さにも。
私は窓際の椅子にどさっと身体を預けました。
窓の外に広がる海は、昨日の夜とうってかわって晴れわたり、眩しく輝いています。
澄みきった空には、雲のひとかけらもありませんでした。
私はまたも煙草に手を伸ばし、火を点ける前に、いや、こんなことをしている場合ではない、と思いなおしました。
妻を―――探しに行かなければ。
それが今の私のしなければならない責務でした。
そうしなければ、私は―――
煙草の箱を投げ捨て、立ち上がったとき、ノックの音がしました。
この部屋にノックをして入ってくる人物は妻ではありえません。
妻でないとすれば、それは―――
「入れよ。鍵はかかってない」
戸の向こうに声をかけました。
すっと戸が開いて、浴衣姿の赤嶺が姿を現しました。
「よう。いい朝だな」
眠そうに欠伸をしながら、赤嶺は咥え煙草のままで器用にそんなことを言いました。
昨夜―――妻を抱いた男。
その男を前にして、私はどんな感情をこめて彼の顔を見ればいいのか分かりませんでした。自然、私は伏目がちになりました。
「朝からなんて顔してんだよ。お日さんが驚いて空から落っこちるぜ」
そんな私を見て赤嶺はけたけたと遠慮なく笑い、宙に向かって紫煙を吐きました。
「いつどんなときでも変わらないお前が羨ましいよ」
「変わってるさ。昨日はすんでのところでお預けをくらったんでな。がっかりして一晩眠れなかった。おかげで寝不足だぜ」
何気ない口調で赤嶺が言うのに、私の耳が反応しました。
「―――お預け、って何のことだ?」
ゆっくりした動作で煙草を灰皿に捨てて、それから赤嶺は興味深そうに私を見やりました。
「そっか。奥さん、言わなかったのか」
「・・・・・・・」
「昨日、たしかに奥さんは俺の部屋にやってきたよ」畳の上にどっかり腰を下ろしながら、赤嶺は言いました。「でも最後まではいかなかった。つまり寸止め。俺にとっては最悪」
「どうして・・・・?」
「どうしてって言うなら、お前こそなんで来なかったんだ? 奥さんが俺に抱かれるところをもう一度見たくて、奥さんを俺のところに寄越したんだろうに」
「・・・・そうだよ」どんなに認めたくなくても、認めざるをえない事実でした。「そのとおりだ」
「だったらなんで来なかった」
私は一瞬言おうかどうか迷いましたが、もはや隠しごとをする相手でもないだろうと思いました。
「・・・ショックで腰が抜けたようになってた。動こうにも動けなかった」
「なんだよ、それ。お前が自分で奥さんを寄越したんだろ」
「それがショックだったんだよ。懲りないでお前の誘惑にのってしまった自分と、瑞希に対してああも残酷な態度をとれる自分がね」
「全然わけが分からん」
「お前には一生分からないだろうよ」
そう言いながら私は考えていました。本当におかしいのは目の前にいるこの男なのか、それとも私のほうなのか―――
「どっちみち、お前がそんな踏ん切りのつかない態度だからこそ、奥さんも余計混乱したんだろうよ。せっかくいいところまでいってたのに、突然泣き出して、これ以上はどうしても駄目だ、駄目だと喚くのさ。そういう普通の女みたいな取り乱し方をしないのが、奥さんのいいところだと思ってたんだけどな」
―――どうしても駄目。
―――まだ、決心がつかないんです。
―――きちんと覚悟が出来るまで、許してください。
昨晩、妻が赤嶺に告げたというその言葉。
妻の意識の中では、おそらく、私に向かって告げられていたのであろうその言葉。
私は―――深いため息をついて、右手で額を押さえました。
「またそんな死人みたいな顔しやがって。いいかげん辛気くさいぜ。それにどのみち賽は投げられたんだ。昨日の晩、お前が選択した時点で」
「今なら戻ることが出来るんじゃないのか? 何もかも元通りってわけにはいかなくても」
「お前が本当にそれを望むならな」
赤嶺はきらりと光る目で、覗き込むように私を見つめました。
「どうだったんだ? 昨夜、お前は帰ってきた奥さんを見て、俺に抱かれてきたと思い込んでいたんだろう? そのときお前はどんな気持ちだったんだ? 普段じゃありえないくらいに昂ったんじゃないのか?」
「それは―――」
それはそのとおりでした。しかし、昂っていたのは、私だけではなかったのです。
妻は―――その数刻前まで赤嶺に肌身を嬲らせていた妻は、決心がつかないと泣いて戻ってきた妻は、あのときたしかに情を昂らせていたのです。
その姿は見たこともないほど妖美で。
ぞっとするほどに艶めいていて。
狂おしいようなあの姿は、目の前にいるこの男の手になるものだったのか。
それとも―――妻が身中深くに秘めているもうひとつの貌なのか。
もしそうだとしても、私には彼女のそんな別の表情を引き出すことは出来ないでしょう。
私の前では妻はあくまで妻であり続けるでしょう。
彼女がそれを望むから。
けれど―――
けれども私は―――
「奥さんは素質があるよ」
私の心中の動きを読み取ったように、赤嶺はぽんと言いました。
「女としての素質がね。その気になれば誰よりも歓びを得られるし、誰よりも美しく変わっていける。あれほどの素質は千人に一人さ。本人は気づいていないかもしれないけど、女の専門家が言うんだから間違いない」
赤嶺はにっと笑って、頭の後ろで両手を組みました。
「あとは奥さんも言ってたように、覚悟次第だろ。でもそれは奥さんの問題というより、お前の問題だな」
この男は―――
いざなう者だ。
今も昔も。
適当な言葉を吐いているように振る舞いながら、その実、すべてをその手に握りしめて。
掌の上でひとをよろこばせ―――
苦しませ―――
導いていく。
「お前がいなかったら、俺はもっとずっと静かに生きていけたのにな」
ぽつりと呟くように、私は言いました。
「静かで平凡な暮らしなんて、何が面白いんだ」
片方の眉を吊り上げながら、赤嶺は侮蔑するように私を見ました。
「瑞希はそれを望んでいたよ。守ろうとしていたよ。この一年ずっと、そんな静かな暮らしを」
―――私はこのままでいい。このままがいいんです。
―――どうして・・・駄目なんですか。
「でも、お前はそんな暮らしで満足できる奴じゃない。それだけのことだ。お前と俺は昔から同じ側の人間なんだ」
赤嶺はそこで言葉を切り、改めて私を見ました。
「決心はついたんだな?」
私は―――
うなずきました。
「それなら結構」
冗談めかしたように言って、赤嶺はひょいっと立ち上がりました。
「どこへ行く?」
「奥さんを探してくる。朝、俺の部屋から宿を出て行く奥さんの姿が見えた。浴衣のままだったから、そう遠くへは行っていないはずだ」
赤嶺は歩き、戸口の前で振り返らずに言いました。
「大丈夫、奥さんもすぐに覚えるさ」
何を―――と聞く前に、扉は閉じられていました。
コメント
耳を貸すかなあ。夫婦関係の絆などないね。
まず、友人の妻を寝取り、クドクドと何時までも
追いかける奴なんているはずないと思う。
前コメントの人も言ってるけど、表現が「安っぽく」リアリティがなく感じます。 失礼ッ
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