投稿者:バーバラ 投稿日:2005/07/19(Tue) 22:35
「ひいぃー!」
そのとき、妻のあげた悲鳴はいまでも忘れられません。妻は水揚げされた鯉のように跳ね回り、勇次から逃れると、床に突っ伏して、自分の衣服で顔を覆っています。
勇次もわたしにきづいた瞬間は驚愕し、しばし呆然としたようでした。しかし、何を言っていいものやら分からず、口中でもがもが言いながら、睨みつけるだけのわたしを見て、勇次は落ち着きを取り戻したようでした。
そればかりか、勇次はにやにや笑いさえいました。すでに平素の好青年ぶりはどこかへ行ってしまったようです。
「どうして分かったの?」
そんなことを聞いてきました。わたしは答えず、さらに勇次の顔を睨み続けました。
「まあいいや。見たんだろ、いまのおれたちのセックス。なら分かるはずだ。おれたちの熱々ぶりがね」
「寛子はわたしの妻だ!」
わたしがやっと言えたのは、その一言だけでした。それまですすり泣いていた寛子は、それを聞いて号泣し始めました。
「ごめんなさい・・あなた・・・ごめんなさい」
わたしは泣き伏して謝る妻の姿を見つめていました。不意に涙がぽろぽろと頬を伝っていくのを感じました。
勇次はそんなわたしたちを冷めた目で見ていましたが、
「とりあえず帰ってくれないか。あんたがおれと寛子のセックスを覗き見してたことは、まあ許すからさ」
わたしはその言葉を聞いて、愕然としました。
「・・許すだと・・・! よくもぬけぬけとそんなことが言えるものだ・・・おまえはわたしの妻を」
「寛子はおれを愛してるんだ。あんたとはもう終わりだよ」
勇次はまったく動揺することもなく、そう言い放ちました。その呆気に取られるほど傲慢な態度は、わたしには理解すら出来ません。若さとは、若いということは、かくも尊大でエゴイスティックになりうるものなのでしょうか。
「・・どうなんだ、寛子」
わたしは押し殺した声で、妻にそう問いました。
全裸の妻は衣服を顔に押し当てたまま、ぶんぶんと首を左右に振りました。
「帰ります・・・あなたと」
その言葉を聞いて、わたしはちらりと勇次を見ましたが、彼はなおも動揺した様子は見せず、薄笑いを浮かべていました。
わたしは思わずカッとなって、勇次を殴りつけました。勇次は素早く身をかわし、わたしの拳はほんの少し、かするくらいにしか当たりませんでした。
わたしがなおも殴りかかろうとするのを、いつの間にか這い寄ってきた妻がわたしの足にすがりついて、
「もうやめて・・・帰りますから」
「ならさっさと着替えろ!」
思わずわたしがそう怒鳴ると、妻はひどくおびえたように服を着始めました。
ふたりは家までの帰り道を無言で歩きました。
妻はすすり泣きをやめません。
わたしは最愛の妻に裏切られたというおもいを、また新たにしていました。先ほど帰りがけに勇次がまた見せた陰湿な薄笑いが脳裏から離れません。胃の腑から這い上がってくるような憤怒が、胸を灼いています。
<バイトはもちろんクビだ。それから・・・わたしはおまえのことを絶対に許さないからな>
帰り際にそう吐き捨てたわたしに、
<勝手にしなよ>
そう言って、勇次は笑ったのです。
・・・その日、わたしが感じた様々な敗北感は、けっして埋められない喪失として、わたしの胸にぽっかりと穴をうがちました。
しかし、わたしはそれが始まりに過ぎなかったこと、そしてその後、自分が本当に妻を<喪失>することになるとは、まだ夢にもおもっていなかったのです。
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