投稿者:バーバラ 投稿日:2005/07/28(Thu) 18:28
妻は語ります。
「あの日、あなたと娘がいなくなって・・・しばらくは呆然としていました。夜になっても、次の日の朝になっても帰ってこなくて・・・その次の日も・・・」
目じりに浮かんだ涙を、妻はハンカチで拭いました。
「・・・気がおかしくなりそうでした。あなたのご実家に電話をかけようかともおもいましたが、お義父さまやお義母に何と言えばいいのかわからなくて・・・不安を紛らわすために、いつもは飲みなれないお酒をずっと飲んでました・・・」
わたしはじっとしていられなくて、妻がいなくなってから再び吸い始めた煙草に火を点けました。妻はそんなわたしをちらりと見ました。
「お酒を飲んで、また泣いて、そうやってひとりでずっと過ごしているうちに、もうどうしようもなく淋しくなってきて・・・・どうしても誰かと一緒にいたくなったのです」
「それで勇次のところへ・・・どうして勇次なんだ? あいつのところへもう一度行けば、取り返しのつかないことになるとは分かっていただろ・・・!」
暗い表情のままで、妻は虚ろにわたしを見つめました。
「取り返しのつかないことになれば、いっそ楽になれる・・・後戻りできなければ、もう思い悩むこともない・・・そんな自暴自棄な・・弱い気持ちになっていたんです。あなたと娘には本当に申し訳ないことをしました・・・」
「その通りだ」
「ごめんなさい・・・・それで彼の部屋に行って・・・抱かれました。一度抱かれてしまうと、今度はそれが怖くなって・・・罪悪感と恐怖を忘れるために、無我夢中で彼を求め続けました・・・・」
「・・・・・」
「それが終わると・・・・わたしは彼に哀願しました。どうか、わたしと逃げてほしい、ここから立ち去ってほしい、と・・・彼は渋りました・・・わたしは彼の機嫌を取るために、彼が言うどんな惨めなことでもしました・・・恥知らずな女です・・・」
わたしは煙草を灰皿へぎゅっと押し付けました。狂おしいおもいで、気が変になりそうでした。
「・・・・しばらくして、彼はやっと了承してくれました・・・わたしは彼と逃げました」
「・・・一度逃げておいて、いまさらおれと別れたいと言ってきたのは何故なんだ? おれと別れてあいつと籍を入れたい、とおもうようになったのか?」
妻は静かに首を振りました。
「ちがいます・・・・彼はわたしと籍を入れる気はないと言っています」
「それじゃあ、何故」
「あなたが誰か他の人と、あたらしく幸せになる機会があるかもしれない、でもわたしと別れないかぎり、再婚できない・・・ずっとそうおもって悩んでました。一度あなたにお目にかかってちゃんと話したいとおもっていたけれども、勇気がなくて・・・決心が着いたのは本当に最近です」
そのときのわたしの気持ちはとても表現しきれません。苛立ち、憎しみ、哀しみ。それらすべてが混ぜ合わされた妻へのおもいで壊れそうでした。
「おれのことはいい。それよりも勇次はお前と籍を入れる気はないと言ってるんだろ? その一事だけでも奴がお前のことをどうおもっているか、自明じゃないか・・! このままの生活を続けていったら・・・お前・・・どうして・・・どうして」
(どうして、それが分からないんだ・・・!!)
わたしの血を吐くようなおもいは、言葉になりませんでした。
「分かってます・・・でも、もう駄目なんです」
しかし、妻は言いました。
「何が駄目なんだ・・・」
「子供が・・・・」
おかしなことに、わたしはそのときの妻の言葉が、咄嗟に分かりませんでした。しばらく阿呆のように妻を見つめていて、その腹に添えられた両手を見て初めてその意味に気づきました。
「子供・・・・」
わたしは呆然として呟きました。すべての思考は止まっていました。
「もうどうしようもないんです・・・だから、わたしと別れてください・・・お願いします―――お願いします」
必死でそう言う妻の言葉も、耳に入っていませんでした。
わたしは死体のように、ただそこへ座っているだけでした。
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