投稿者:KYO 投稿日:2006/03/09(Thu) 21:10
春日は額を床に擦り付けるようにして哀願します。
「なぜだ? 2人とも愛し合っているんじゃないのか」
「愛し合っていません」
「なんだと?」
「愛し合っているのか」と聞いてあっさり「はい」と答えられるの
も腹が立ちますが、「愛し合っていません」と即答されて私は一層
怒りが増しました。
「どういうことだ? 愛し合っていないとは何だ? お前たちは遊
びで一つの家庭を壊したのか」
「ですから……壊してほしくないんです。慰謝料はお支払いします。
よければ奥さんに請求する分も私が払います」
「さすがに銀行の次長ともなれば金持ちだな。離婚するのだから妻
とお前にそれぞれ500万円ずつ請求するつもりだが、払えるのか」
「それは……2人で100万円くらいなら」
「話にならん。払えないのなら偉そうなことを言うな」
「いえ……離婚されないのならそのあたりが相場かと……わかりま
した。2人で200万円でどうでしょう?」
「バナナのたたき売りじゃないんだ」
私は怒鳴り声を上げました。
「それと、離婚するかしないかは俺達夫婦の問題だ。お前が口出し
をするな」
「ごもっともです」
「それからさっきからのお前の関西弁も気に入らない。ふざけてい
るのか」
「ふざけていません。私はもともと関西出身で、これが普通です。
銀行でも関西弁で通しています」
「ビデオの中ではそうじゃなかったぞ」
「あれは……奥さんが標準語で話してくれと……」
妻がどうしてそんな希望を出すのでしょう。私は首をひねりました
が、今はそれどころではありません。
「とにかくお前はどうして責任を取らない。俺が妻と別れたら妻と
一緒になるのが責任だろう」
私は本当は妻と離婚してからも、妻が春日と一緒にはなって欲しく
ないのですが、自虐的になってわざとそういう聞き方をします。
「私は誰とも結婚しません。奥さんでなくても同じです。結婚した
ら必ず相手を不幸にします」
「何?」
私は春日の奇妙な言葉に混乱します。
「どういうことだ」
「私も結婚の経験はあるのですが、職場の女性に何度も手を出した
ことで、愛想を尽かした妻に出て行かれました。融資業務部という
のは問題融資の期日管理や利払いの処理をしている部署で、銀行の
中では裏方、日のあたる場所ではありません。私がこの年でそんな
部署の次長に留まっているのは女で何度も失敗したのが原因です」
「……」
「やめよう、やめようと思うのですが、女ぐせの悪さは生まれつき
のようで、やめられないのです。もう、病気のようなものです。だ
から結婚は諦めてますし、一人の女性を好きにならないようにして
います」
「お前の身の上話を聞きたいんじゃない。とにかくこれから妻をど
うする積もりだ」
「どうすることもありません。してしまったことを否定はしません
し、出来る限りの償いはします。それと、ご夫婦の問題であること
は重々分かっていますが、奥さんとよく話をしてください。お願い
します」
確かに春日はすべて非を認めているため、夫婦の問題を片付けない
ままこれ以上彼と話をしても仕様がありません。仕事を途中で抜け
てきたこともあって、春日にはいったん帰ってもらうことにしまし
た。
一人になった私は、何か当てが外れたような気持ちになっていまし
た。妻と男に手酷く復讐してやると思っていたのが、春日の態度を
見ているとまるで私が独り相撲を取っているような気がしてきたの
です。
私は応接間のソファに深々と腰を下ろし、ぼんやりとしていました。
このマンションにも暮らし始めて10年以上になります。購入した
当時の、まだ幼い子供を抱いて真新しい部屋を順に巡った時の妻の
うれしそうな顔を思い出します。
子供たちの入学式、入園式、お宮参り、始めてわが子を抱いた時の
うれしさ。お産を終えた妻の安堵した表情。家族の歴史が時間を逆
流するように私の脳裏に浮かんできました。
うっかり私はソファで寝込んでいたようです。外はもう夕方で薄暗
くなっています。完全に目が醒め切れない私は珈琲をいれることに
しました。
珈琲がポットの中に溜っていくのをぼんやり見ていたら、玄関のチ
ャイムが鳴りました。子供達が学校から帰ってくるには随分早いな
と思いながら玄関に向かうと、そこに荷物を持った妻が立っていま
した。例のお気に入りのグリーンのコートを着ています。
「明日まで帰らないのじゃなかったのか」
「両親に断って、あれからすぐに家を出ました。早くあなたにお話
ししたくて。上がっても良いですか?」
私がうなずくと妻はブーツを脱いで上がって来ました。キッチンに
入った妻は、珈琲が出来上がっているのに気づきました。
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