七塚 11/4(土) 22:46:30 No.20061104224630 削除
木崎が初めて知った頃の千鶴は、新品の真綿のような女だった。清潔でふわふわとしていて、軽く力をこめれば簡単に引き裂けるようなはかない雰囲気が木崎の心を捉え、また時には薄汚れた自分との絶望的な距離を感じさせた。
だが、それは昔の話である。
金のために風俗に身を堕とし、見知らぬ男と寝ていた千鶴。
挙句の果てにはまた金のために、自分を犯した男の所有物となった千鶴。
そんな千鶴はどうしようもなく惨めな女であるはずだった。
実際、木崎のものになってからの千鶴は、まるで抜け殻のようで、かつての面影をまったく失っていたのだ。
だからこそ、木崎はそんな千鶴の中に唯一残っていた時雄への無垢な愛情が憎かった。
その愛情は永遠に自分へ向けられることがないという事実が憎かった。
それからの木崎は千鶴を汚し、貶めることに異常な情熱を燃やした。思いつく限りの淫虐を千鶴にくわえた。
『お前は商売女だ。金を取って男と寝ていたんだ。それを忘れるなよ』
そんな言葉を木崎は執拗に繰り返し、千鶴の心を嬲った。
どんなにあがこうが、苦しもうが、もう二度と幸福な昔には帰れない、穢れのない姿には戻れない―――。
絶えずそう言い聞かせ、彼女のもっとも深い心の傷にナイフを刺しこむことで、木崎は千鶴に自覚させようとした。今の自分は木崎に金で買われた身であること、二度と再び時雄の前には姿を出せない自分であることを。
木崎が言うまでもなく、千鶴自身そのことは絶えず思っていたはずだ。どんなに辛い仕打ちにあわされても、ほとんど唯々諾々だった千鶴がそのときは悲痛な表情を隠せなかった。そんなとき、木崎は鋭い痛みとともに、自虐的な快感を覚えていた。
千鶴を傷つけることは、木崎にとっては自傷行為にも近かった。そうと気づいていながら、やめることは出来ず、木崎はどんどんとその行為にのめりこんでいった。
「本当に救いようのない歳月だった・・・暗闇で滅茶苦茶に突っ走っているような・・・その結果がこれだ。千鶴は出て行った」
木崎は苦渋の吐息を漏らした。
「最初は千鶴への復讐のつもりだった。俺がどんなに愛しても、決して俺を見ようとはしないあの女への復讐。だが、今思えばそうじゃなかったのかもな。諦めのわるい俺は、そうやって千鶴を汚すことで、いつかはあいつを本当に手に入れられると考えていたのかもしれない。間抜けな話さ。結局、千鶴はお前と再会してから、あっという間もなく俺から去っていった」
木崎はそう言って、乾いた笑い声をたてた。
時雄は黙ってそんな木崎を見ていた。
やがて、言った。
「お前の話は―――それで終わりか?」
「・・・え?」
聞き返した木崎の鼻面を、時雄は渾身の力で殴りつけた。
腰掛けたソファごと、木崎は床に崩れ落ちた。
時雄は立ち上がった。這いつくばった木崎を睨みつけた。
「ふざけるなよ・・・!」
そう吐き捨てた。
「お前がどんな思いで、どんなことを考えて生きてきたのかなんて、俺にとってはどうでもいい。お前は俺と千鶴の人生を身勝手に捻じ曲げたんだ。千鶴の心を得たかっただと? 愛されたかっただと? いいかげんにしろよ、何様のつもりだ。千鶴はモノじゃない、生きて悩んで苦しんでいる人間なんだ。千鶴の心は千鶴のものだ、他の誰のものでもない」
分かっている―――。
誰かを愛しすぎた人間は木崎のようになる。愛する者を自分だけのものにしたくなる。独占欲に狂っては、檻の中に閉じ込めて、自由を奪って、自分に都合のいい姿だけを見せてほしいと願う。時雄にだってそういう部分はある。とりわけ千鶴に対しては――。
だが、それは思春期の少年が夢見るような幻想だ。決して形にしてはならない熱病のような想いだ。
「お前が身勝手な理屈をどれだけこねようが、お前に誰かを傷つける権利はない。苦しむなら自分だけで苦しめよ。千鶴を巻き添えにするなよ。そんな、そんなくだらない理由でお前は千鶴の七年を」
俺の七年を奪ったのか―――。
時雄は血を吐くような想いでそう叫んだ。
木崎はがっくりとうなだれたまま、何も言い返さなかった。
やがて―――
少しだけ落ち着きを取り戻した時雄は、低い声で聞いた。
「ひとつ聞かせろ。お前は千鶴と籍を入れているのか?」
「・・・いや。なぜだ?」
「千鶴がそう言った」
時雄の言葉に、木崎ははっとした表情になった。その顔がゆっくりと歪み、木崎は馬鹿笑いを始めた。実に苦しげな笑みだった。
「ははは、こいつはおかしい。最初、俺はあいつを自分の力で幸せに出来たら、そのときにきちんと籍を入れようと思っていたんだ。それが―――俺の夢だった」
木崎の目尻から涙が落ちた。
「まったく、どこまで俺を虚仮にすれば気がすむんだ、あの女は」
「お前に千鶴を責める資格はない」
時雄は抑えた声でそれだけ口にした。
「なあ・・・」
しばしの沈黙の後で、木崎はぼんやりと言った。
「千鶴は・・・お前のところへ戻るのか」
時雄は宙を見つめた。自分の心と、今もどこにいるのか知れない千鶴の幻影を見つめた。
そして、答えた。
「分からない。それは千鶴が決めることだ」