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北原夏美 四十路 初裏無修正

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七塚 11/4(土) 22:46:30 No.20061104224630 削除

 木崎が初めて知った頃の千鶴は、新品の真綿のような女だった。清潔でふわふわとしていて、軽く力をこめれば簡単に引き裂けるようなはかない雰囲気が木崎の心を捉え、また時には薄汚れた自分との絶望的な距離を感じさせた。

 だが、それは昔の話である。
  
 金のために風俗に身を堕とし、見知らぬ男と寝ていた千鶴。
 挙句の果てにはまた金のために、自分を犯した男の所有物となった千鶴。
 そんな千鶴はどうしようもなく惨めな女であるはずだった。
 実際、木崎のものになってからの千鶴は、まるで抜け殻のようで、かつての面影をまったく失っていたのだ。
 だからこそ、木崎はそんな千鶴の中に唯一残っていた時雄への無垢な愛情が憎かった。
 その愛情は永遠に自分へ向けられることがないという事実が憎かった。 

 それからの木崎は千鶴を汚し、貶めることに異常な情熱を燃やした。思いつく限りの淫虐を千鶴にくわえた。

『お前は商売女だ。金を取って男と寝ていたんだ。それを忘れるなよ』

 そんな言葉を木崎は執拗に繰り返し、千鶴の心を嬲った。
 どんなにあがこうが、苦しもうが、もう二度と幸福な昔には帰れない、穢れのない姿には戻れない―――。
 絶えずそう言い聞かせ、彼女のもっとも深い心の傷にナイフを刺しこむことで、木崎は千鶴に自覚させようとした。今の自分は木崎に金で買われた身であること、二度と再び時雄の前には姿を出せない自分であることを。
 木崎が言うまでもなく、千鶴自身そのことは絶えず思っていたはずだ。どんなに辛い仕打ちにあわされても、ほとんど唯々諾々だった千鶴がそのときは悲痛な表情を隠せなかった。そんなとき、木崎は鋭い痛みとともに、自虐的な快感を覚えていた。
 千鶴を傷つけることは、木崎にとっては自傷行為にも近かった。そうと気づいていながら、やめることは出来ず、木崎はどんどんとその行為にのめりこんでいった。

「本当に救いようのない歳月だった・・・暗闇で滅茶苦茶に突っ走っているような・・・その結果がこれだ。千鶴は出て行った」
 木崎は苦渋の吐息を漏らした。
「最初は千鶴への復讐のつもりだった。俺がどんなに愛しても、決して俺を見ようとはしないあの女への復讐。だが、今思えばそうじゃなかったのかもな。諦めのわるい俺は、そうやって千鶴を汚すことで、いつかはあいつを本当に手に入れられると考えていたのかもしれない。間抜けな話さ。結局、千鶴はお前と再会してから、あっという間もなく俺から去っていった」
 木崎はそう言って、乾いた笑い声をたてた。
 時雄は黙ってそんな木崎を見ていた。
 やがて、言った。
「お前の話は―――それで終わりか?」
「・・・え?」
 聞き返した木崎の鼻面を、時雄は渾身の力で殴りつけた。
 腰掛けたソファごと、木崎は床に崩れ落ちた。
 時雄は立ち上がった。這いつくばった木崎を睨みつけた。
「ふざけるなよ・・・!」
 そう吐き捨てた。
「お前がどんな思いで、どんなことを考えて生きてきたのかなんて、俺にとってはどうでもいい。お前は俺と千鶴の人生を身勝手に捻じ曲げたんだ。千鶴の心を得たかっただと? 愛されたかっただと? いいかげんにしろよ、何様のつもりだ。千鶴はモノじゃない、生きて悩んで苦しんでいる人間なんだ。千鶴の心は千鶴のものだ、他の誰のものでもない」
 分かっている―――。
 誰かを愛しすぎた人間は木崎のようになる。愛する者を自分だけのものにしたくなる。独占欲に狂っては、檻の中に閉じ込めて、自由を奪って、自分に都合のいい姿だけを見せてほしいと願う。時雄にだってそういう部分はある。とりわけ千鶴に対しては――。
 だが、それは思春期の少年が夢見るような幻想だ。決して形にしてはならない熱病のような想いだ。
「お前が身勝手な理屈をどれだけこねようが、お前に誰かを傷つける権利はない。苦しむなら自分だけで苦しめよ。千鶴を巻き添えにするなよ。そんな、そんなくだらない理由でお前は千鶴の七年を」
 俺の七年を奪ったのか―――。
 時雄は血を吐くような想いでそう叫んだ。
 木崎はがっくりとうなだれたまま、何も言い返さなかった。

 やがて―――
 少しだけ落ち着きを取り戻した時雄は、低い声で聞いた。
「ひとつ聞かせろ。お前は千鶴と籍を入れているのか?」
「・・・いや。なぜだ?」
「千鶴がそう言った」
 時雄の言葉に、木崎ははっとした表情になった。その顔がゆっくりと歪み、木崎は馬鹿笑いを始めた。実に苦しげな笑みだった。
「ははは、こいつはおかしい。最初、俺はあいつを自分の力で幸せに出来たら、そのときにきちんと籍を入れようと思っていたんだ。それが―――俺の夢だった」
 木崎の目尻から涙が落ちた。
「まったく、どこまで俺を虚仮にすれば気がすむんだ、あの女は」
「お前に千鶴を責める資格はない」
 時雄は抑えた声でそれだけ口にした。

「なあ・・・」
 しばしの沈黙の後で、木崎はぼんやりと言った。
「千鶴は・・・お前のところへ戻るのか」
 時雄は宙を見つめた。自分の心と、今もどこにいるのか知れない千鶴の幻影を見つめた。
 そして、答えた。
「分からない。それは千鶴が決めることだ」  
七塚 11/6(月) 20:07:12 No.20061106200712 削除

 翌日は月曜日だったが、時雄は仕事を休み、千鶴の母親が入院しているという病院へ向かった。
 病院の所在は木崎に聞いた。
 昨日の苦しかった木崎との対峙を、時雄は思い出す。

「お前が何をしようが、奪われた時間はもう戻ってこない。今さらその時間を返せとも言わない」

 両者ともに魂をすり減らすような時間の終わりに、時雄は木崎に対して言った。
「だが、これからも千鶴につきまとうことだけは絶対に許さない。お前が千鶴の母親のために使った金がどれくらいのものかは知らないが、お前はその代価を十分に支払わせたはずだ。これ以上、千鶴の人生を金で縛るな」
「・・・・・・」
「もし、またそんなことがあるようなら、どこにいてもお前を探し出して、今度こそ叩きのめす。絶対に」
 木崎は黙っていたが、その様子に昔のようなふてくされたところはなかった。憑きものが落ちたようなその姿は一回り小さくなったようだった。

「最後に聞きたい。千鶴の居場所の心当たりはあるか?」
「・・・お前のところにいないなら、あとはひとつしかない。母親のいる病院だ。この何年もの間、時間があれば千鶴はいつもそこに通っていた」
「場所は?」
 時雄の問いに、木崎は迷うことなく答えた。それからくるっと背を向けて玄関に向かった。
「じゃあな」
 振り返らないままに、木崎は言った。
「もう千鶴には会わない―――」

 病院の受付係にはある程度の真実を素直に告げた。自分が入院している紙屋久恵の娘の別れた夫であること、世話になった久恵の見舞いをしたいこと。幸い、受付係の女性はその説明を信じてくれたが、しばらくまじまじと時雄の顔を見て言った。
「あなた、ものすごく顔色がわるいですよ。帰りにうちの医院で検査されたほうがいいですよ」
 時雄は苦笑するしかなかった。あまりにも苛酷なこの数日のために、身も心も疲れきっていた。

「久恵さん、とてもいい方で私も大好きなんですけど、お年のせいか、最近はちょっと記憶が混乱していたりします。そのことを少し、心に留めておいてください」
 時雄を案内してくれた看護婦はそう言って、病室の戸を叩いた。
「久恵おばあちゃん」
 看護婦の呼びかけに、ベッドの上の老女が顔をあげた。
「ああ・・・時雄さん」
「お見舞いに来てくだすったんですよ」
 看護婦はそう言って、時雄を中へ誘い入れた。
「お久しぶりです」
「ほんに・・・」
 久々に会った久恵は、当然のことながら記憶の中の久恵より老い、身体も小さくなっていた。長年にわたる病床生活で、腕も足も折れそうなほど細い。だが、柔和なその表情、優しげな目元は以前のままだった。
「この人はね、私の娘の旦那さんなんですよ。とてもいい方よ。あの子もいいひとにもらわれて、私、本当に嬉しく思っているの」
 久恵は顔をほころばせ、看護婦に向けてそう言った。驚いた時雄がちらりとそのほうを見ると、看護婦は無言でうなずいてみせた。
「そうなの。よかったね、お婆ちゃん」 
「はい・・・」
 看護婦の言葉に、久恵はにこっと笑った。人の善意そのもののようなその笑みは、張りつめた時雄の心を優しく潤わせた。
 ―――この世で一番尊い笑顔だ。
 本当にそう思えた。
 看護婦は久恵に笑い返し、もう一度時雄を見て無言でうなずくと、「失礼します」と言って出て行った。

「千鶴はよくお義母さんに会いにくるのですか?」
 しばらく久恵の体調や容態についての話をしたあとで、時雄はそっと聞いてみた。『お義母さん』という昔の呼び名を使うことは時雄にとっては切なくもあったが、久恵の中では時雄はまだ変わらず千鶴の夫だった。
「それはしょっちゅう。時雄さんにも迷惑だからそんなに頻繁にじゃなくていいといつも言ってるんですけどね・・・あの子は優しいから・・・。それより私は孫の顔が早く見たいですねえ」
 久恵の言葉に時雄はなんと答えていいか分からなかった。記憶の混乱した久恵は、千鶴と話すときも、今でも娘の夫は時雄であると思いこんで話していたのだろうか。そんなとき、千鶴はなんと答えていたのだろう。母親に夫のこと、家庭のことを聞かれて、千鶴はどう答えていたのだろう。
 そんな場面を想像して、時雄の胸は痛んだ。

「そういえば、昨日もあの子は来ましたよ。この花を見舞いに持ってきてくれました」
 幸い、久恵はあっさり話を変えて、ベッドの横の台上を指差した。久恵は『花』と言ったが、実際はそれは縦長の画用紙に描かれた絵だった。花は金木犀、素朴なタッチと繊細な色使いは、明らかに記憶の中の千鶴のものだった。
「あの子はよくこんなふうな花の絵を持ってきてくれるんですよ。絵なら枯れないし、いつでも楽しめるからねえ。ほら、ここにたくさん」
 そう言って久恵は台の引き出しからクリアファイルを取り出した。受け取って開いてみると、そこには花、花、花。春夏秋冬を彩る花の数々が、季節ごとにきちんと整理されて並べられていた。
 暗鬱な日々を生きる中でも、千鶴は床に伏す母に贈るため、こうして何枚も何枚も美しい絵を描き続けていたのだ。眺めていると、自然に涙が出てきた。今までどんな辛い目にあっても涙は出なかったが、今度ばかりはたまらなかった。そもそものはじまり、時雄が千鶴という女性に惹かれるきっかけとなったのも、温かさに満ちた彼女の絵だった。そして今、眼前には千鶴の絵があふれている。千鶴があふれている。
 ぽろぽろと涙をこぼし、声もあげずに泣く時雄を、久恵は驚いたように見ていたが、やがてまた慈愛に満ちたあの笑みを浮かべた。
「どうも、時雄さんは疲れているようですね。何事も頑張りすぎはよくありませんよ、ほどほどが一番・・・。ほら、そこの椅子に座って、今日はしばらく休んでいかれたらどうですか」
 時雄は久恵に頭を下げ、彼女の言葉どおり病室の椅子に腰掛けた。涙をぬぐって、瞳を閉じる。
 これまでひどい日々の連続で心身ともにすり減らしてきたが、今日この瞬間だけでその甲斐はあったと思えた。それほど胸が熱くなっていた。
 そのまま、ゆっくり時雄は眠りに落ちた。久々の、何もかも包みこまれるような眠りへと。

 そして、目が覚めたとき、目の前には千鶴がいた。 
七塚 11/8(水) 00:42:55 No.20061108004255 削除

「千鶴・・・いつから?」
 時雄の問いに、千鶴は人差し指を口元へ持っていっき、目で久恵のベッドを指した。久恵は安らかな眠りについていた。
 時雄は納得して立ち上がり、そっと病室の外へ出た。千鶴も着いてきて、静かに戸を閉めた。

 病院のすぐ傍にある喫茶店は、平日の昼間だというのに混んでいた。
 二人ともコーヒーだけを注文した。
 千鶴はじっと時雄を見て、細い声で言った。
「驚きました。どうしてここが分かったのですか?」
「木崎に聞いた」
 時雄の答えに、千鶴は瞳を少し見開いた。
「・・・また木崎に会ったのですか?」
「探したんだよ。結局は向こうから会いにきたんだがね。木崎も君を探していたんだ」
「そうですか・・・」
「なぜ出て行ったんだい?」
 その問いは、三日前の夜に時雄の部屋から姿を消したことと、木崎のもとを離れたことの両方の理由を聞いていた。
 千鶴は重ねた両手を擦りながら、しばらく黙っていた。
 次の言葉を待ちながら、時雄は店内のざわめきを聞いていた。七年ぶりに再会してからずっと非日常的な状況でしか会う機会がなかったが、こうして穏やかな昼下がりにありふれた喫茶店で千鶴と向かい合っていると、一瞬、昔に戻ったような錯覚に陥る。あるいは先ほどの久恵との会話が、時雄をそんな気にさせるのかもしれない。

「・・あなたと再会してから、私、考えたんです」
 突然、千鶴はそんなことを言った。先ほどの問いの答えではなかったが、時雄は黙って先を促した。
「あの夜、あなたと向かい合って、昔、あなたにしてしまったひどいことの話を聞いてもらって・・・、でもあなたは私を救いたいと言ってくれました。凄く嬉しかったです。でも・・・同時に恥ずかしくなりました。自分が恥ずかしくなりました」
 千鶴は身を震わせて、合わせた掌をぎゅっと握った。
「身勝手な私のせいで、あなたを傷つけて・・・ずっと傷つけて・・・。それなのに、あなたは変わらなくて・・・。そんなあなたを見ていたら、自分がどれだけ醜い人間だったか思い知って、いたたまれなくなりました。だから」
「・・意味が分からないよ。君はたしかに俺に何も告げず出て行った。そのことは今でも怒っているし、悔やんでもいる。でもそれからの君の人生は、色々な不幸な偶然と木崎のせいで大きく歪められてしまっただけだ。醜いとか、恥ずかしいとか、そんなふうに思う必要はない」
 時雄は慎重に言葉を選びながらそう言った。だが、千鶴は静かに首を振った。
「違うんです」
「何が違う?」
「・・人生は何をして生きたか、ではなく、どういう態度で生きたかが一番重要だという言葉があります。誰の言葉かは知りませんが、本当にそのとおりだと思います。そして私はその意味で最低な生き方をしてしまったんです。たしかにはじまりは不幸が重なった結果といえるかもしれません。でも、その後で、その不幸に流されてしまったのは紛れもなく私なんです。そして自分だけでなく、あなたの人生まで深く傷つけてしまった」
 そう語る千鶴の顔に、この前の涙はなかった。ただ、厳しい覚悟のようなものが、その瞳の奥に窺えた。
「私は傷つくのを恐れて、逃げ回ってばかりいた子供だったんです。昔からそうでした。あなたと会ってからも、あなたに頼りきりでずっと自分は安全なところにいたんです。覚えていますか? あなたが最初に私を好きだと言ってくれたときのことを。あのとき、私は本当に嬉しくて嬉しくて・・・でも、後になってふと思ったんです。私もずっとあなたのことを好きでしたけれど、もし、あなたからそう言ってくれなかったら、私からはきっと何も言えずにずっと長い間後悔しただろうなって。傷つくのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、結局、私は自分からは何もせずに逃げてしまっただろうなってそう思ったんです」
 千鶴の長い髪がはらりと揺れた。
「あなたと結婚して、幸せを手に入れた私は相変わらず変われないままで、そしてあんなことになってしまいました。そのときも私は何も言えなかった。そのせいであなたをもっと辛い目に遭わせてしまいました」
「・・・・・・・」
「その後も色々なことがあって・・・、最終的に私は木崎に助けられ、そして彼の人形になりました。彼にすべてを委ねてしまいました。・・・自分がひどいことをしている自覚はありました。こんなことになって、あなたには本当にひどいことをしてしまったと思っていました。・・・厭なことから逃げ回ったあげく、私は二重にあなたを裏切ってしまったんです」
 消え入りそうなほど小さくなっていく千鶴の声が、ざわめく店内で時雄の頭の中にだけにまっすぐ響いた。
「自分のしてしまったことを真剣に考えれば考えるほど、恐ろしい後悔と罪悪感でいっぱいになりました。そんな辛さから逃れるために、私は人形のようになっていたんです。人間はすべてを誰かに委ねて、自分の心で思ったり考えたりすることも放棄して生きるほうが楽なんです。その意味で私だって木崎を利用していたんです。木崎の奴隷のように生きることで、私は自分の罪や失ってしまった幸福の重さから逃れようとしました。途中で木崎もそんな私のことを本当に奴隷として扱い始めましたが、私は抵抗しませんでした。辛い目や酷い目に遭わされれば遭わされるほど、自分がひどい状態になればなるほど、私は自分を誤魔化すことが出来ました。一時だけですけれど。その後でまたより重苦しい気持ちがやってきて、私はどんどん自虐的になっていきました」
 似ている―――。
 時雄はそう思った。千鶴の語る言葉は昨日の木崎の話とどこか似ている。千鶴は精神的負担から逃れるために、木崎は千鶴の愛を受けられないという現実から逃れるために、いよいよ深い暗闇へ堕ちていった。まったく違う目的のため、手に手を取り合って。
「そんな日々を続けていたなかで、あなたと再会しました。あなたは何も変わっていませんでした。昔と同じようにまっすぐで、私のひどい話もきちんと聞いてくれて・・・。私はそんなあなたが嬉しくて、同時に自分がいかに醜い生き方をしているかを改めて悟ったんです。そんな自分が厭で厭で、あなたへの申し訳なさでいっぱいで・・・そのとき、思ったんです。もう遅いけど、してしまったことは消えないけど、これからは自分で自分のことを考えて、すべてから逃げずに生きていこうって。辛いこと苦しいこと、醜い自分からも逃げずに生きていこうって。それ以外は、自分の罪滅ぼしを本当にすることにはならないって・・・」
 千鶴は顔をあげてまっすぐに時雄を見た。
「ごめんなさい。私の話はあなたにとっては、意味が分からないかもしれません。そんなことよりも、もっと他にすべきことがあるんじゃないかって思われるかもしれません。でも、これが私の正直な気持ちです。今度は逃げないで、自分の力で母を救いたい。今まで傷つけたあなたへの罪滅ぼしもしたい。木崎に対しても、今までお世話になったお金はきちんと返します」
 しっとりと潤んだ千鶴の瞳に、燃えるような激しさを時雄ははじめて見た。
 息を呑むような思いだった。
七塚 11/8(水) 00:52:32 No.20061108005232 削除

 やがて、時雄は口を開いた。
「君の言いたいことは分かった。どれだけ理解できているのか心もとないけれど、君の気持ちも俺なりに分かったつもりだ。そのうえで言いたい。君はあまり何もかも背負い込もうとしすぎだよ」
 固く握り締められたままの千鶴の小さな拳を見つめながら、時雄は言った。
「さっき病室でお母さんが言っていたよ。何事も頑張りすぎはよくない、ほどほどが一番だとね。誰でも綺麗なだけじゃ生きていけない。エゴのためによくないことや醜いこともする。誰かを犠牲にすることもある。それが本当に生きているってことじゃないのか。たしかに俺は君が出て行ったとき、辛い思いをした。その後も、ここ最近もずっと辛かった」
「ごめんなさい」
「まあ、聞いて。辛かったのは君が好きだからだ。ずっと好きだったからだよ。でもその思いは俺のもので、君のものじゃない。木崎も木崎なりに君のことは愛していただろうが、それと君の思いとは関係ない。君は誰かに何かに縛られる必要はないんだ。すべてのことに矛盾なく辻褄を合わせるなんて、世界中のどんな奴にだって出来るはずはない。皆、違った人間なんだ。だから憎んだり、怒ったり、哀しいことが起きるんだけど。でもそのうえで、出来るかぎりで誰かと心を合わせて生きようとしている」
「そうだとしても・・・自分のしたことの責任は取らなければなりません」
「それはそうだろうけど・・・だけど、少なくとも今の俺にとっては、本当はそんなことは重要じゃない。罪滅ぼしなんて望んでいない。君にとってはまた違うんだろうけど、俺は」
 責任とか、過去とか、罪とか。
 裏切りだとか、後悔だとか。
 そんなことはもうどうでもいいじゃないか。
 俺はただ、好きなだけだ。君のことが好きで、ずっと一緒にいたいだけだ。
 本当はそう叫びたかった。だが、時雄は言わなかった。そんな言葉で片付けるには、千鶴の迷い込んだ深遠はあまりにも深すぎた。どんな言葉も今の千鶴には届かない。彼女のくぐり抜けてきた暗闇の一部を覗き見た時雄だから、なおさらそう思えた。
 
「・・・君がどうしてもそうしたいと言うなら、俺にはとめられない。ただ、俺にも君を助けさせてほしい。言っておくが、木崎には金を返す必要はない。君も俺もそのために十分すぎる代償は払っている。それは木崎にも言い、奴もそれを受け入れた。もうひとつ、久恵さんの治療費に関しては、俺にもその負担を分けてほしい」
「お気持ちはありがたいです。でもこれ以上あなたに迷惑は」
「迷惑なんかじゃない」
 時雄は強い調子で、千鶴の言葉を遮った。
「久恵さんは俺にとっても大切な人なんだ。役に立てて嬉しいとは思っても、迷惑だなんて思いはしない。それは君に対しても言えることだ。俺は今でも君が好きだ。君のためならなんでもしたいと本当に思っている。だけど、今の俺が何をしても、それがまた君を縛ってしまうことになると思う。俺が金の問題を肩代わりして、君が俺のもとへ戻ってきてくれたとしても、それでは木崎と同じことになってしまう。君は俺に対して負い目を感じ続け、また別の人形になってしまうと思う。そんなことは俺も望んでいないよ」
 千鶴は黙ってうつむいた。その細い頸を時雄は見ていた。
「だけど、どうであれ、俺は君にこれ以上不幸になってほしくない。だから」
 時雄は一瞬、ためらった。その先の言葉は、本当は口に出したくなかった。
 だが―――言わなければならない。
「君がこの先、普通の仕事をして普通に生活していけるだけの生活費を考えた範囲で、俺も久恵さんの治療費を分け合う。何度も言うが、これは俺からの気持ちで出すお金で、何も負い目を感じる必要はない。でも、いくらそう言ったところで君の気持ちは納得しないだろう。だから―――俺はもう君には会わないことにする。連絡も取らない」
 千鶴の瞳が驚きで大きく開かれた。悲痛な想いでそれを見つめながら、時雄は言葉を続ける。
「俺のために何かしなければならないなんて思わないでもいい。俺は木崎にはなりたくない。これ以上、金や自分の気持ちで君を縛りたくない。君が自分の意思で生きていこう、そうすることで立ち直ろうとしているなら、決してその邪魔をしたくない。だから・・・もう会わない」
 本当は厭だった。
 どんなことになっても、ほかの誰かを傷つけてでも、千鶴の傍にいたかった。ずっと一緒に生きていきたかった―――。
 けれど、せっかく前向きに生きようとしている千鶴を縛りたくないというのも本心だった。千鶴が自分の意思と心で生きていこうと決意したなら、それを引き止めるような真似はしたくなかった。そうしなければ千鶴の心が救われないなら―――。
 突然告げられた別れの言葉に、千鶴は呆然としていた。やがて、大きく開いたままの瞳から、涙が後から後から零れだした。千鶴の震えた唇が動き、何か言おうとしたが、言葉にならないまま、また閉じられた。
 願わくば―――と時雄は思う。今の別れの言葉を、己に与えられた罰のように千鶴が受け取らないで欲しいと思う。そんなつもりは微塵もない。本当に千鶴を愛している。だから、今は彼女から離れなくてはならない。

 そのまま二人は、何も言わずにいつまでもそこに座っていた。


 一組の元夫婦の事情などかまうはずもなく、時間は流れ、過ぎてゆく。
 千鶴と再会し、また別れたあの秋から、季節は変わって冬になり春になり夏になり、そしてまた秋になった。
 時雄は相変わらず独りだった。周囲の状況にも変化はない。ただ淡々と仕事に精を出しているだけだ。
 千鶴とはあれから一度も会っていない。言葉どおり、千鶴の口座に毎月相応の金額を振り込んでいるが、それを本当に千鶴が使ってくれているかどうかも分からない。そうしてくれればいい、と祈るような想いでいるだけだ。

 先日、久しぶりに久恵の見舞いに行った。久恵は相変わらず時雄と千鶴が今も夫婦でいると思い込んでいる。それが辛くて、あまり見舞いにも行けない。千鶴と会ってしまう可能性もある。本当はそんな偶然が訪れることを心の底で願っているのが自分でも分かるので、なおさら時雄は行かない。
 自分から会うことはしないが、もう二度と千鶴と会えないと決まったわけでもない。もし、千鶴が立ち直り、彼女から会いにきてくれたら、もう一度ただの男と女としてやり直すことが出来るかもしれない。そうならなくても、千鶴が幸せになってくれればそれでいい。一年前、あの辛い日々の中でもがき苦しんだ意味はそれで十分にある。

 その先日の見舞いの時、時雄は久恵から千鶴の描いた花の絵をひとつ分けてもらった。時雄の一番好きな花を。

 だから時雄の何もない部屋では、季節外れの一輪のヒナギクだけが、今もそっと咲いている。

                          <了>

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