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北原夏美 四十路 初裏無修正

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七塚 10/10(火) 20:19:55 No.20061010201955 削除

(いったい俺は何をやってるんだ)
 浴室を出た時雄はリビングのソファに腰を下ろしながら、ひとり自己嫌悪に陥っていた。
 千鶴はもう時雄の妻ではない。遠い昔に別れた女だ。
 だが、時雄は現在の彼女の夫である木崎を殴り倒し、あまつさえ彼女を店から連れ去って自宅へ連れてきた。ほとんど衝動的な行動だった。
 木崎の悪行を目にしたという事実を知らなければ、誰が見たって時雄のほうこそ異常な人間に思えることだろう。
 嫉妬に狂った元夫の蛮行―――。
 そうではない、とは時雄自身にも完全に言い切れない。だから余計に始末がわるい。
 過ぎ去った七年の月日は、あまりにも重かった。
 いつの間にか七年前よりもさらに深い泥沼へ入り込んでしまった自分を時雄は自覚した。
(そうじゃない。自分から飛び込んだのだ)
 千鶴を救いたいという熱い想いは真実だった。だが、そこに愛憎の根が絡みつくと、もう平静ではいられない。純粋な気持ちは失せ、どろどろしたエゴと後ろめたさが顔を出す。
 そんなつもりではなかったのに―――。
 ふと気配を感じて振り返ると、千鶴が立っていた。湯上りの身体に来たときの服を身に着けている。肩まである濡れた黒髪が艶やかだった。
 千鶴は赤く腫れた瞳を伏せながら、ゆっくりと近づいてきて時雄の正面に座った。
 気まずい雰囲気がふたりの間に流れた。
「さっきは・・・わるかった」
 時雄から、そう切り出した。
「ついイライラとしてあんなことを言ってしまった。すまない。本当に後悔している」
 千鶴は黙ってうつむいている。折れそうなほど細い頸がやけに弱々しく見えた。
「俺はこんな人間だ・・・カッとなると見境がなくなって、エゴが丸出しになってしまう。それがよく分かった。だから―――七年前、君に愛想尽かしされて出て行かれたのも、今となっては当たり前のことのように思う」
 うなだれた千鶴の肩がぴくりと動いた。
「だから過去のことはもういい。俺は―――現在の君を救いたい」
 迷いを振り切るように、時雄はきっぱりと言った。
「以前、俺が君に『幸せなのか』と尋ねたとき、君は『幸せだ』と答えた。あれは真実なのか? 俺にはとてもそうは思えない」
 千鶴は顔を上げた。腫れぼったい瞳が時雄を見た。
 朱い唇が震えるように動いた。
「その前に言わせてください。私があなたのもとを出て行ったのは、すべて私に責任があることです。あなたは何もわるくない。そんなふうには考えないで欲しい」
 胸の奥から絞り出すような声だった。
「わるいのは、本当にエゴイストだったのは私なんです」
「過去のことはもういい」
「よくはありません。ごめんなさい、私にこんなことを言う資格はないけど、あなたが仰ったように謝るのは卑怯だというのも分かるけれど、それでも私はあなたに謝らなくてはいけないんです。七年前も、その後も、そして今もあなたには迷惑ばかりかけてしまいました。本当にすみません」
 千鶴はそう言って、床に手をつき、深々と頭を下げた。
 時雄は何も言えなかった。黙って千鶴のそんな様子を見ているのも忍びなく、時雄は立ち上がって意味もなく窓際へ寄った。
 窓から見える街は―――いつもの夜の街だった。人間たちの織り成すどんな悲劇もどんな喜劇も飲み込んで、街はいつも変わらない。

「あのとき―――」

 背後から千鶴の声が聞こえた。
「私は嘘をつきました。あなたの仰るとおり、私は今、幸せではありません。七年前のあのときから、私が幸せだったことは一度としてありません。でも―――それでいいんです。悲劇のヒロインを気取っているわけではありませんが、今の私は堕ちるところまで堕ちてしまいました。それもこれもすべて私の心の弱さのせいです。私にはもう幸せになる資格も、あなたに助けてもらう資格もありません。本当にそう思っています」
 時雄は思わず振り向いた。千鶴は立ち上がってまっすぐに時雄を見ていた。長く見なかった凛とした瞳で。
「だけど・・・あなたと再会して、今の汚れてしまった自分を見られて・・・私は恥ずかしかったけれど、それ以上にとても嬉しかった。変わらないあなたと会えて嬉しかった。こんな気持ちは我がままだと分かっています。だけど、どんな形であれ、あなたの心の中にまだ私が残っていたことが嬉しかったんです。だから、さっきお風呂場であなたが仰ったことは、本当に心に突き刺さりました」
「あれは」
「いいんです。すべて真実のことですから。やっと分かりました。私があなたに何も語らなかったのは傷つくのが怖かったからです。嫌われても憎まれてもいい、ただこれ以上軽蔑されたくはなかった。堕ちるところまで堕ちて何をいまさらと思われるかもしれませんが、本当のことを話してあなたに軽蔑されるのが怖かったんです」
 千鶴の瞳に涙の珠がみるみるうちに盛りあがり、やがて溢れた。
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七塚 10/9(月) 20:32:12 No.20061009203212 削除

 風呂に入ると、酷使した肢体が緩んだ。
 ひどい一日だった。
 時雄の人生における最初の大きな波乱が千鶴との離婚だったとしたら、今日は二度目の波乱だった。
 何のことはない、どちらも千鶴がらみだ。
 これから先、ふたりがどうなるかは分からない。今の時雄は千鶴とは赤の他人である。
 それでも彼女と関わることをやめられない。
 将来、自分が年をとり、過去のことを思い返すとき、自分はいったい千鶴のことをどのように思い返すのか。
 そんなことをふと時雄は考えた。それは痛みを伴う想像だった。
 不意にバスルームの戸が開いた。
 振り向くと、裸の千鶴が立っていた。
 時雄はなぜかどぎまぎした。見てはいけないものを見てしまった気がした。
「どうした?」
 やっと、それだけ言った。
「いえ・・・」
 何が「いえ・・・」なのか分からないが、千鶴はそれだけ言って、無言で浴室へ入ってきた。耳まで赤くなっていた。
 台の上にしゃがみこんで、千鶴はシャワーを使い始めた。
 その裸の背中を時雄はちらちらと眺めた。
 この前、再会したときは随分痩せたと思い、それはたしかにそうなのだが、いま時雄のほうを向いている千鶴の裸の尻は、昔と比べてずいぶん豊かになったと思う。昔はもっと少女めいた身体つきをしていた。
 そういえば、乳房もかなり大きくなったようだ。
 自分の知らないうちに―――
 時雄は木崎のことを考えた。そして自分が顔も知らないような、大勢の男たちのことを考えた。
 この七年のうちに千鶴の身体の上を通り過ぎたであろう、大勢の男たちのことを。
「―――出る」
 むくむくと湧き上がってきた不快な気持ちを振り払うように、時雄は短く言って、風呂から出ようとした。
「待ってください」
 千鶴が振り向いた。浴室の光に照らし出され、白い肌が光沢を放っている。細い上半身に、そこだけ豊かに張り出した乳房から滴り落ちる水の粒が、妙に生々しかった。
 時雄はぞくっとするような欲望と殺気に似た想いを同時に抱いた。
「・・・お背中を流します」
「いや、いい」
「でも・・・」
 すがるような瞳で見つめてくる千鶴の顔。
 その顔を見つめ返しながら、時雄は自分を抑えられなくなった。
「いいかげんにしてくれ。理由を問われても何一つ満足に答えられないからといって、今度は色仕掛けで俺を誤魔化そうとする気か」
 千鶴の大きな二重まぶたがいっそう大きく見開かれた。あまりのショックに呆然となっているように見えた。
「君も変わったな。客商売をやるうちに男扱いが巧くなったのか。そうやって男の前で身体を晒して気を惹けば、最後にはどうにか辻褄を合わせられるとでも思っているのか。馬鹿にするな」
「違います! 私はそんな」
「そんな女じゃないとでも言うのか。自分の今までやってきたことを考えてみろ。金をもらって、知らない男に言われるままに、股を開いてきたんだろう。昔の君からは想像も出来ない。今の君は身体も心も汚れきっている」
 一息にそれだけ言って、時雄は浴室から出て行った。
 ぴしゃりと締めた戸の向こうから、千鶴の号泣が聞こえる。
 時雄自身、自らの言葉に深く傷ついていた。傷つきながら、さらに傷口を広げるようなまねしか出来なかった。
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七塚 10/9(月) 20:29:41 No.20061009202941 削除

 静かな調子に激情を孕んだ時雄の言葉に、千鶴はうつむいて視線を逸らし、じっと何かを考えているようだった。
 やがて、言った。
「・・・その前に傷の手当てをさせてください。薬箱はありますか」

 千鶴の細い指が、時雄の手首を掴んでいる。
 濡れタオルで傷ついた拳を拭いた後、千鶴は消毒液をひたしたガーゼを包帯で傷口に固定した。
「ほかに傷はありませんか?」
「唇を少し切ったくらいだ。あとはなんともない」
「そうですか・・・」
 千鶴の表情に何かためらうものがあった。
 時雄の胸が疼いた。
「木崎のことが気になるのか?」
 その言葉に千鶴は答えず、黙っていた。
「奴はまだ公園で寝てるかもしれないな。散々、顔を殴ってやったから」
 千鶴はうつむいて、まだ黙っている。
「奴のことが心配か?」
「・・・・・・」
「どうなんだ? 俺に気を遣わないでもいい」
 千鶴は無言のまま、血で汚れたタオルと衣服を持って立ち上がった。その手首を時雄はとらえた。
 はっとした瞳が時雄を見る。
「なぜ奴に言われるまま、他の男に身体を売った?」
 鬼気迫る顔で時雄は聞いた。
 千鶴の顔から血の気がひいた。もともと白い顔が、いっそう蒼褪めるのが見えた。
 しばらくの間、ふたりとも黙っていた。
 やがて、千鶴がぽつりと呟くように言った。
「すみません。手首を離してください。痛いです」
 時雄が手の力を緩めた。掌にじっとりと汗をかいている。千鶴の細い手首に赤く痕が残った。
 千鶴はゆっくりと時雄の前に正座した。
「ごめんなさい」
 千鶴は静かにそれだけ言った。
 時雄は何も答えずに天を仰いだ。
 やるせない気持ちでいっぱいだった。
 千鶴の瞳から、涙がすっと流れるのが見えた。
「どうしてそんなことになった?」
「・・・・・・」
「金のためか? 何かどうしても金が必要になったのか?」
「・・・・それは・・・そうではありません」
「ならばどうしてアイツの言いなりになる!」 
 時雄は思わず叫んでいた。
「七年前のあのときもそうだった。君はただ謝るばかりで、何ひとつ俺に教えてくれなかった。君はそれでいいかもしれない。だが、取り残される俺の気持ちにもなってみろ。言い訳でもなんでもいい。俺が七年間どんな気持ちで生きてきたのか、君には分かるか。たった今、どんな気持ちで君とこうして向かい合っているのか、君には分かっているのか」
 大声で言って、時雄は千鶴を睨みつけた。
 千鶴の大きな瞳に溢れた涙の粒が、みるみる大きくなっていくのが見えた。
「泣くのは卑怯だ」
「・・・・・」
「謝るのも卑怯だ」
「・・・・・」
 両手で顔を覆って、千鶴はしのび泣いている。
 自分の言葉が千鶴を追いつめているのは痛いほど分かってはいたが、それでも時雄は追いつめずにはいられなかった。
 ふうっと時雄はため息をついた。
「ちょっと風呂に入る。出てきたら、話を聞かせてくれ。今度こそ」
 それだけ言って、時雄は立ち上がった。
 千鶴は両手で顔を覆ったまま、動かなかった。
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七塚 10/8(日) 16:57:17 No.20061008165717 削除

 いきなり扉を開き飛び込んできた時雄に、店内にいた者は皆、驚いた顔をした。先ほどの乱闘で時雄の顔や身体のあちこちには血が付いている。
「あなた・・・・」
 千鶴もまた驚いた顔をして、ふらふらと立ち上がった。時雄はつかつかと歩いていき、その手首を強く引いた。
 そのまま有無を言わさず、店の外へ連れ出した。
「ちょっと待て、あんた!」
 誰かが叫ぶ声を背中で聞きながら、時雄は千鶴をぐいぐい引っ張って、夜の道を走った。

 環状線の電車に揺られながら、時雄は一言も口を聞かなかった。口を開けば、何かに負けてしまいそうだった。
 千鶴もまた何も言わない。連れ出された理由を問うこともしなかった。黙ったまま、すっとハンカチを取り出し、時雄に付いた血を拭った。
 電車を降りて、時雄が現在住んでいるマンションへ行った。
「入ってくれ」
 時雄は静かに言った。 
 千鶴は招かれるまま、リビングに入って座布団の上へ正座した。
「お部屋、綺麗にされているんですね」
 ぽつりとそう言った。
「物がないからな」 
 実際、この部屋にはほとんど物がない。掃除が面倒なので、必要最低限の物しか置かないのだ。自炊もほとんどしないので、キッチンも汚れてはいない。
 あまりにも簡素で生活感のない部屋。それはいかにも寂しい一人暮らしの中年男の現実を露呈しているようで、そんな生活の一端を千鶴に覗き見られたことが、こんな場合でも時雄は気恥ずかしかった。部屋を見つめる千鶴の顔も、心なしか痛ましげな表情に見えた。

「千鶴」
「はい」
「なぜ黙っている? なぜ何も聞かない?」
 時雄の言葉に、千鶴はなおも視線を合わせず、じっと床を見つめていたが、おもむろに、
「その怪我はどうしたんですか?」
と聞いた。
「これは・・・」
「木崎、ですか」
 千鶴の勘の鋭さに、時雄は舌を巻いた。
「木崎と会ったんですね・・・」
「ああ、そうだ」
 時雄が答えると、千鶴はまた黙り込んだ。
 目覚まし時計の秒針の音だけが、かちかちと響く。
「千鶴」
 また、名を呼んだ。
「はい」
「俺からも聞きたいことがある。答えてくれ」
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七塚 10/7(土) 00:37:25 No.20061007003725 削除

「・・・それとこれとは関係ない。お前のやってることは犯罪だ」
 時雄の言葉を、木崎は鼻で笑った。
「正義漢ぶるのはやめろ。お前がそんなにいきりたってるのは、相手が千鶴だからだろうが。もう七年も経つのに、いまだに寝取られた女房に未練たらたらとは笑わせる」
「話をすりかえるな」
「俺が犯罪者だというのなら、千鶴も同罪だぞ。これはあいつも同意の上でのことなんだからな」
「そんなはずはない。千鶴がそんなことを望むはずがない。お前が無理やり、千鶴に客をとらせて―――身体を売らせているんだ」
 時雄は言いながら、身を切り裂くような痛みを感じていた。自分で口に出した言葉に、自分で傷ついていた。
「なぜだ。なぜお前はここまで腐ったことが出来る」
「へっ」
 木崎はいかにも時雄を見下したような目をした。
「聞いたふうなことを言うんじゃねえよ。あいつがそう言っていたのか?これは自分が望んでやっていることじゃないとでも言っていたのか。えっ、どうなんだ?」
「聞かなくても分かる」
「何が分かるって言うんだ? お前は千鶴の何を知ってるって言うんだ? 何も知らなかったから、別れることになったんだろうが。あいつは心の底から俺に惚れているのさ。だから俺の望むことなら、何でもしてくれる。ただ、それだけだ。理屈も何も関係ない。俺が金に不自由していたら、それこそ売春だろうとなんだろうと今の千鶴は厭いやしない」
 木崎はそこまで言ってから、また下卑た顔つきで笑った。
「それに千鶴もまんざらでもない様子だぜ。お前と別れてから、初めて本当の女の悦びってやつを知ったんだよ、あいつは。もちろん教えたのは俺だがな。今じゃ毎度毎度、違う男に違うやり方で抱かれるのを、積極的に楽しんでいるようだぞ。女はいいな、どんなことも悦びに変えてしまう」
 にやにやと笑いながらそんなことを語る木崎は、時雄の理解を遥かに越えていた。薄汚いポルノ映画をみているときのような現実感のない感覚―――。
 くらくらと眩暈がする。
 視界が歪む。世界が変わる。
 
「どのみち、お前は何も関係がないんだ。あくまでも正義漢気取りを貫くつもりなら、いいぜ、警察にでも訴えるなら訴えてみろ」

 木崎は完全に開き直っていた。
 時雄は怒りよりもむしろ呆然としている。
 世の中にこれほど醜い人間がいるとは思わなかった。
 反吐が出そうだ。
 時雄はもうこれ以上、木崎と話していたくなかった。今、したいことはたったひとつ。木崎をぶちのめすことだ。
 時雄が一歩前に出る。尋常ならぬ気配を感じたのか、木崎は後ずさりした。年の差、身長ともにほとんど変わらない二人だが、今まで荒れた生活を送ってきたのが目に見えるような木崎の貧弱な体躯を前に、時雄に恐怖はなかった。いや、最初からそんなものを感じる余裕のないくらい、時雄は昂ぶりきっていた。
「また殴る気か」
 木崎が低い声で言う。声が震えそうになるのを、意地で抑えているかのような声だった。
「ああそうだよ、クソ野郎」
「殴るなら殴れよ。千鶴は俺のもんだ」
「そんなことは関係ない。何度も言わせるな」
 時雄が飛びかかるのと、木崎がぱっと身をひるがえしたのはほぼ同時だった。
 木崎の肩を捕まえ、懇親の力で引き寄せながら、殴りつける。木崎はそのパンチをよろめきながらかわし、振り向きざまに時雄を蹴りつけた。腹に打撃を受けながらも、時雄はその足を受け止め、地面へ引きずり倒した。
 そのまま、馬乗りになり、何度も何度も顔面を殴りつけた。
 木崎の顔と時雄の拳が血にまみれる。
 なおもしばらく殴った後、時雄は木崎の上から離れた。急に激しく動きすぎて、息が辛い。拳もずきずきと痛んでいる。
 木崎は苦しそうに呻いている。鼻と切れた唇から、大量の血が流れ出ていた。
 気がつくと、公園の向こう側にいた人影がいなくなっていた。誰か、ひとを呼びにいったのかもしれない。
 鉛のような身体を引きずって、時雄は立ち上がった。
 ふと近くの地面に黄色い封筒が落ちているのが目についた。
 拾い上げてみると、中には写真が入っているようだ。おそらく、先ほど木崎がサラリーマン風の男に見せていた写真が入っているのだろう。
 その写真に映っているのは―――
 考えるだけでぞっとした。時雄はむしろ後ろめたさを感じながら、その封筒をポケットにしまいこんだ。
 いつの間にか腫れ上がったまぶたの下で、木崎が薄目を開けて時雄を見ていた。
 その瞳を時雄はまっすぐに睨みつけた。
 木崎の赤黒く染まった唇が動いたが、何も言葉にはならなかった。
 時雄も何も言えなかった。振り向きもせず、その場を立ち去った。

 倒れた木崎を残し、逃げるようにその場を去りながら、時雄の胸はやりきれない空しさで翳っていた。
(これで満足か)
 心の内で別の自分の声がする。 
(七年前のあの日から、ずっとお前はこのときが来ることを望んでいたんだろう?)
(あの殺しても飽き足りない木崎を、足腰が立たないくらいにやっつけてやることを)
 違う、ともう一人の時雄が弱々しい声で呟く。
 俺はそんなつもりじゃなかった。
 ただ、ただあの女のために―――

 そうだ、あの女だ。
 何に代えても俺はあの女を救わなくてはならない。

 痛む身体を叱咤して、時雄は走った。
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七塚 10/5(木) 19:11:29 No.20061005191129 削除

「もう少し人気のないところで話そう」
 サラリーマン風の男がそう言って、木崎と連れ立ってその場を離れた。
 時雄はその後を付けていった。
 目の前を行く二人は、近くにあった公園の中に消えていった。
 夜の公園は数人の若者と中年のカップルがいるだけだった。
 時雄は用心深く別の出入り口から公園へ入り、茂みに隠れながら二人に近づいていった。

「これは・・・たしかに」
「・・・間違いなくあの女・・・」
 切れ切れに二人の声がする。
 よく分からないが、サラリーマン風の男は木崎から渡されたものらしい写真に見入っていた。
 見つかる危険を冒して時雄はさらに近づいていった。
「金を払えば・・・・この写真のようなことが・・・」
「・・・・お好きなように・・・どんなプレイでも・・・」
「・・・信用しても・・・・」
「・・・・・半日で五万・・・・・」
 夜の闇からかすかに聞こえてくる声は、時雄にとってこれ以上なくおぞましい内容を語っていた。
 間違いない。
 木崎はバーに通い、千鶴と関わりをもった客に何気ない顔で売春を斡旋しているのだ。
 仮にも夫である木崎が、自分の妻をまるで商売女のように扱って金を稼ごうとしている。
 あまりにも異常な出来事に遭遇して、時雄の頭の中は真っ白になっていった。
 激情が蘇ったのは次の木崎の言葉を聞いてからだ。

「・・・女のほうも望んでやっているんですよ・・・」
「・・・そういうのが好きな女なんです・・・」

 時雄の中で何かがプツリと切れた。
 気がついたときには時雄は叫び声をあげて飛び出し、木崎を殴りつけていた。
 のけぞって地面に倒れた木崎が驚いた顔で時雄を見た。
「何をする!」
「うるさい!」
 時雄は倒れた木崎の腹をめちゃくちゃに蹴りつけた。
 突然の乱入者に肝を潰し、サラリーマン風の男は脱兎の如く逃げていった。
 そのほうには目もくれず、なおも数回木崎を蹴りつけた後で、時雄は荒い息をついてよろめいた。強く噛んだ唇から流れ出た血を手の甲で拭う。身体中の血液が沸騰しているかのように、どくどくと高鳴っている。
 木崎は怯えと苦痛の入り混じった顔で時雄を見つめていたが、
「お前・・・横村か?」
 と、かすれ声で言った。
 時雄は答えなかった。ただただ木崎の顔から視線を逸らさずに、その濁った瞳を睨んでいた。
「お前がなぜここにいる。なぜ俺を殴る・・・今の話を聞いていたのか」
「お前は」
 時雄は怒りに震える声を振り絞った。
「お前は人間じゃない。犬だ。腐れきった犬畜生だ」
 木崎はよろよろと立ち上がった。
 その顔には相変わらず怯えの色があったが、口元には厭らしい笑みを作っている。
「俺をつけてきたのか。それじゃあ千鶴があの店で働いていることも知っているわけだな」
 時雄に殴りつけられ、腫れ上がった唇が歪んだ。
「相変わらず情けない野郎だ。いい年して今でも七年前に別れた女房の尻を追っかけてるのか」
「なんだと・・・」
「千鶴はお前とはもう他人だろうが。あいつはもう何年も前から俺のものだ。俺たちふたりのことに口を出すな」
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七塚 10/5(木) 00:24:04 No.20061005002404 削除

 木崎は雑居ビルの中へ入っていった。
 行き先はもちろん、千鶴のいるバーだろう。
 時雄はビルの手前の道路で立ちすくんでいた。
 まだ胸がどくどくと高鳴っている。
 濡れ雑巾で心臓を鷲づかみにされたような衝撃だった。

 千鶴を間に挟んでいざこざのあった大学時代から数年後、また同じく千鶴を間に挟んで起こったあの出来事の際、時雄は木崎に久々に再会した。それからもすでに七年が経つ。
 両者の立場はあの七年前から完全に入れ替わっている。
 今では木崎が千鶴の夫なのだ。
 頭では分かっていたが、実際に木崎の姿を目にすると、その事実がひどく耐え難いものに思えた。

 七年前。
 久々に再会したときも、木崎は変わらず厭な奴だった。
 自分が寝取った女の夫である時雄に対して、一見すまなそうにし、口では謝罪しながらも、内心では時雄のことを見下していることが見え見えの態度が我慢ならなかった。
 それに加えて、木崎はこの期に及んでも時雄に対して先輩面を崩さなかった。
 話し合いのため、差し向かいで話していたとき、激昂した時雄が木崎の名を呼び捨てにしたことがあった。
「てめえ、誰に向かって話してる。俺は先輩だぞ」
 木崎は顔を真っ赤にして怒った。学生時代そのままの、子供じみた口調で。
 それを見て、時雄は気が抜けた。空しさすら感じた。
 自分はなんというつまらない男を相手にしているのだろう。 
 ひとの妻を寝取っておいて、この男は相手に対する誠意を見せるどころか、まだ大学時代の先輩後輩などという形式にこだわっている。
 くだらなすぎて、吐き気がした。怒鳴る気力すら萎えてしまった。

 時雄はバーの入り口が見える裏路地に立ち尽くしたまま、そんな過去の記憶を回想していた。
 木崎に関しては厭な記憶しかない。
 この七年間、千鶴のことを思い出すことはよくあっても、木崎については滅多になかった。
 木崎の存在は時雄にとってあまりにも忌まわしい記憶だった。無意識のうちに心が彼を思い返すことを拒否していたのだろう。

 時雄はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。このところ、あからさまに喫煙量が増えている。
(それにしても・・・)
 木崎はなぜ千鶴―――妻がホステスをしているバーなどへ行ったのだろう。
 そもそも、三十半ばを過ぎた妻にホステスなどをやらせている男の神経が分からない。よほど家計が逼迫しているのだろうか。木崎自身はどうなのだ。きちんとした職で働いているのか。
 考えれば考えるほど、苛々した。
 ふっと時雄は自嘲の笑みを浮かべた。
 いったい自分は何をしているのか。寝取られた女房と寝取った男を前にして、あれこれと想像を巡らしながら暗い路地に突っ立っている元夫。どこの間抜けだ?そいつは。
 煙草を踏み消す。もう帰ろう。
 すべては―――終わったことだ。

 そのときだった。
 バーの入り口のドアが開いて、サラリーマン風の男が出てきた。 そして、そのすぐ後に今度は木崎が出てきた。入店してから、ものの三十分も経っていない。
 時雄は思わず、近くの家の駐車場の影に身をひそめた。
 サラリーマン風の男が目の前を通り過ぎかける。
「待ってください」
 木崎の声がした。
 サラリーマン風の男はそのまま行こうとしたが、何度も呼びかけられて振り向いた。面食らった様子だった。
「私ですか」
「そうです、そうです」
 木崎の声。
「何か用ですか?」
 サラリーマン風の男は警戒した様子で、それでもその場に足をとめた。明らかにふたりは旧知の仲ではない。
「ちょっとお話があります。いえ、わるい話じゃありませんし、危ない話でもありません」
 木崎の口調はまさに悪徳商人のそれだった。どこの世界にそんな口上で安心する人間がいるだろう。
 時雄のいる場所からは木崎の姿は見えない。
「コレですよ、コレ。女の話です」
「そんな話に用はない」
「つれないなー、話だけでも聞いてくださいよ。ナニ、女といっても見知らぬ女じゃない。あなたがさっきあのバーで話していた女です。ほら、ホステスにしてはちょっと年増だが、なかなか美形のあの女」
 時雄は思わず息を呑んだ。
 木崎は明らかに千鶴のことを言っている。
「あの女に興味はありませんか?」
 木崎の突拍子もない言葉にサラリーマン風の男は、なんと答えたものかしばし迷っている様子だったが、
「あんた、あの店のものなのか?」
 と小さな声で聞いた。
「違います。でも個人的にあの女とは懇意でしてね。あなたがお望みなら、いつでも逢瀬の機会をご用意しますよ」
(いったい、こいつは何を言ってるんだ?)
 時雄は呆然となった。  
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七塚 10/4(水) 18:53:30 No.20061004185330 削除

 千鶴と再会した次の週の金曜の夜、時雄はまたあのバーのほうへ足を向けた。
 もう会わないほうがお互いにとっていいと分かってはいても、そうせずにはいられなかったのだ。
 たとえ千鶴が言った「幸せです」の一言が真実であろうと、なかろうと、時雄の存在は今の彼女にとっては重荷でしかなかろう。
 それならば、自分にとって今の千鶴はどういう存在なのか――。
 それもはっきりとは分からない。
 彼女は時雄にとって、真剣に愛した最初で最後の女だった。
 同時に、どんな事情があるにせよ、時雄を手ひどく裏切り、彼の人生を狂わせた女だった。
 出会って、やがて結婚して。千鶴と暮らした数年間は、切ない幸福の幻影と、やりきれない空しさとなって、時雄の脳裏に刻み込まれていた。 
 あの頃、仕事にかまけていたとはいえ、時雄の気持ちが千鶴から離れたことは一度もなかった。それだけは自信を持って言える。
 もともと美術に関心のあった時雄は、望んでいたデザイン系の仕事に就くことが出来て有頂天だった。仕事が面白くて面白くて、仕方なかった。早く一人前になって、誰からも認められる男になりたいという希望に燃えていた。
 誰からも―――いや、そうではない。誰よりも何よりも、千鶴に認めて欲しかった。彼女にとって、誇れるような夫でありたかった。
 千鶴を幸せにしたかった。幸せにする自信もあった。
 だが―――その夢は破れた。
 あの悪夢の日以降、時雄は荒れた。自分を裏切った千鶴が憎くて憎くて仕方なかった。
 最も愛し、最も信頼していた人間に裏切られる―――。
 言葉にすれば簡単に表現できるそんな事実が、これほど辛いものだとは思わなかった。
 時雄は千鶴を責めた。千鶴は泣いて謝るばかりで一切言い訳はしなかったが、たとえ言い訳したとしても、当時の時雄にそれを聞く余裕はなかっただろう。その頃、彼は完全にパニック状態だった。
 千鶴は離婚を望んだ。
 時雄は最初、それを拒否した。とんでもない、と思った。なぜ、自分は何もしていないのに、と思うと、怒りばかりがむくむくと湧いてきて、時雄はますます荒れた。
 しかし、その一方で、時雄の中のもう一人の人間は、冷たい現実を受け入れ始めていた。
 たとえ、このままの状態を続けていたところで、事態は悪くなる一方だ。
 そう思えるくらい、時雄は疲れ果てていたのかもしれない。
 それからの数週間は、幸福というものは実に呆気なく崩れていくものだということを確認するような日々だった。

 やがて、二人は別れた。

 しばらくは呆然と日を送った。
 仕事を終え、家に帰ってもそこに妻はいない。あるのは空虚な暗闇と、やりきれない喪失感。
 それが唯一の現実だった。とても信じられない、信じたくない現実だった。
 あえて心に鍵をかけて思い出さないようにはしていたが、やはり想うことはいなくなった千鶴のことばかりだった。
 千鶴のことを想うたび、激しい憎しみと、そしてそれを上回る思慕の念が蘇った。
 あの日、あのとき、自分の傍らで笑っていた千鶴の幻影が、瞳に焼きついて離れない。
 なぜ、どうしてこうなってしまったのか。
 思い出はやがて後悔へと変わり、憎しみは自責の念へと変わっていった。
 そんなふうに思う自分がもどかしく、また不思議でもあった。
 今なら分かる。
 あの頃、千鶴に出て行かれた時雄は寂しかった。どうしようもなく寂しかったのだ。
 

 千鶴がホステスを勤めるバーのあるビルの手前に来たとき、時雄は前を歩く男に目をとめた。
 見覚えがある、というレベルではない。
 老けてはいるが、見間違えるはずもないあの顔。
 じわっと脇に厭な汗をかいた。
 木崎だ。 
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七塚 10/3(火) 23:47:03 No.20061003234703 削除
 時雄は大学の美術サークルで千鶴と知り合った。時雄が大学の三回生となった春のことだ。
 新入生歓迎コンパのとき、恥ずかしそうに自己紹介をする千鶴を見て、可愛い子が入ってきたなと思ったものの、それ以上の感想を最初は持たなかった。
 印象が変わったのは、彼女の絵を見てからだった。
 千鶴の絵は花や動物や周囲の風景といった日常の風景を描くだけで、特に奇をてらったところもなく、地味といえば地味な画風だった。しかし、そうした日常の小さなものにそそぐ視線の温かさが感じられ、見ているだけで心が和むような絵であった。自己主張ばかり激しくて内容のない絵から抜け出せないでいた時雄には、千鶴の素朴で温かみのある絵は新鮮だった。

 当時、千鶴のことを狙っていると噂された男が、サークルの中にいた。時雄にとっては先輩に当たる人間だった。
 その先輩は木崎という男だった。
 時雄は木崎が苦手だった。はっきりいって嫌いなタイプだった。
 木崎はアートかぶれの人間にありがちな、何に対しても斜に構える男だった。誰でも、何にでも批判的であれば優位に立てると思い込んでいるような木崎の人間性が、時雄にはひどく子供っぽいものに思えて厭だった。
 その木崎が千鶴を狙っていると聞いて、時雄は不安になった。
 千鶴は見るからに押しが弱そうな女だった。木崎のようなタイプの男が強引に迫れば、好き嫌いにかかわらず押しきられてしまいそうだと思った。
 木崎が千鶴に話しかけている姿を部室で見かけるたび、時雄の胸は騒いだ。出来ることならそばに行って、二人の会話に割って入りたいくらいだった。実際、時雄は何度もそうして木崎から白い目で見られた。
 その頃にはすっかり千鶴のことが好きになっていたのだ。彼女を誰にも渡したくないと時雄は思った。
 だから、時雄の告白に千鶴が「私も好きでした」と言ってくれたときは、天にも昇るような気持ちだった。
 一方で鳶に油揚げを攫われた形になった木崎からは、千鶴ともどもことあるごとに嫌味を言われた。攫った男が後輩だったことも、木崎のプライドを刺激したのだろう。部室で千鶴と話しているだけで、
「いちゃついてんじゃねえよ」
 と言われたようなときには、本当に殴ってやろうかと思うくらいに腹が立ったものだ。 
 大学の美術サークルでの四年間は、千鶴と出会った場所でもあり、時雄の人生の中でも幸福な思い出のひとつだったが、唯一、木崎のことだけが厭な記憶である。
 何ぞ知らん、まさかその「厭な記憶」が壁にかけられた肖像画の人物が抜け出してくるように、再び時雄の人生の前に現れようとは。

 千鶴と木崎はいつ再会し、いつから秘密の関係を持つようになったのだろう。
 はっきりしたところは分からない。だが思い当たるのは、あの悪夢の日の数ヶ月前に美術サークルの同窓会があったのだった。
 仕事で出張に行っていた時雄は出席していない。千鶴だけが行った。
 翌日、自宅へ帰ってきた時雄を出迎えた千鶴の様子には、特に変わったところはなかったように思う。
 いや、後からそう考えているだけで、実際は違ったのかもしれない。時雄は仕事にかまけて家庭を顧みる余裕のない迂闊な夫だったから、妻の些細な変化や心の動揺を察することも出来なかったのかもしれない。 
 千鶴はたとえ悩みがあっても、容易にそれを口に出すタイプではない。むしろ潰れるまで抱え込んでしまう女だ。
 あの頃、千鶴と木崎の間に何があったのかは、今でも分からない。
 だが、もしも千鶴が何か葛藤を抱えていて、自分に対してSOSのサインを送っていたとしたら―――
 そのサインに自分が気づくことすら出来ずにいたとしたら―――
 いくら後悔しても足りない。
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七塚 10/2(月) 22:31:57 No.20061002223157 削除
 顔を上げた千鶴は何かを言おうとして言葉にならない様子だった。
 その叙情的な瞳から一筋の涙が伝い落ちるのを、時雄は見た。
「ごめんなさい」
 しかし、結局千鶴の口から出た言葉はそれだけだった。
「ごめんなさい、か・・・」
 時雄は呟くように言い、唇を強く噛み締めた。
 いつの間にか、七年の歳月を飛び越えて、あの日あのとき感じた様々な感情が胸に呼び起こされてきたようだった。
 目の前の千鶴は顔をうつむけて、しのび泣いている。
 その様子を見つめる自らの胸に去来する激しい愛憎の念が、今でも強くこの女に結びついていることを時雄は痛みとともに自覚した。
「・・・もういいよ」
 時雄は短く言った。
「そのかわりといっては何だが、これだけは聞かせて欲しい。君の、正直な気持ちを」
 千鶴が顔をあげた。
「君は今、幸せなのか?」
 涙で潤んだ瞳が、驚いたように見開かれた。
「・・・それは」
 戸惑ったような千鶴の声。
 いくら正直な気持ちを聞かせて欲しい、と言われたところで、千鶴ならそれよりもむしろ時雄の気持ちを傷つけない答えを選ぶかもしれない。時雄の知っている千鶴はそういう女だった。
 だからこそ、いま彼女は迷っている。どう答えるのが一番よいのかが分からなくて。分かるはずなどない。時雄自身にも自分の気持ちが分からなかった。


 時雄はその夜、どこをどういうふうに自宅まで帰ったのか覚えていない。
 夜の風が冷たかったことだけは覚えている。
 季節はもう確かに秋なのだ。
 せっかくの休日だったが、何もする気になれなかった。朝食を作る気にすらなれなくて、コーヒーだけですませた。
 煙草を咥えると、胃がきりきりと痛んだ。
 紫煙の向こうに昨夜の千鶴の面影がよぎる。

「幸せ―――です」

 最後に彼女の口から出た一言。その一言がいつまでも、時雄の耳から離れなかった。
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七塚 10/1(日) 21:49:31 No.20061001214931 削除

「あなたはどうなんですか?」
千鶴がぽつりと言った。
「どういう意味?」
「再婚のことです」
「まさか。していないよ」
「どうして?」
「どうしてって。この年だし、仕事が忙しいし、なかなか女性と知り合う機会もないよ」
「そんなことないと思うわ。時雄さんはハンサムだし」
時雄の胸が疼いた。
(『時雄さん』か)
そう呼ばれたのは久しぶり―――七年ぶりだ。
「僕はハンサムなんかじゃない。金持ちでもない。おまけに女房を他の男に奪われるような、情けない男だ」
「・・・・・」
千鶴の顔が哀しげに曇った。
「・・・すまない。僕は相変わらずだ。過去のことは忘れるなんて言っておいて、僕にはとても出来そうにない」
「当然だわ。あなたには私を責める資格がある」
「・・・・・・」
時雄は思い返す。
あの日のことは忘れられない。あのとき目にした光景は胸の中に今も生々しい傷跡を残し、折につけてじくじくと痛んでいる。

雨の日だった。
商談相手の都合で急に出張が取りやめになり、雨の降りしきる中、時雄は夜遅くになって自宅へ帰ったのだ。
鍵を開け、玄関へ入ってすぐに異変に気づいた。
見たことのない男物の靴がそこにあったのだ。
そのとき感じた戦慄は、今でもはっきりと覚えている。
静かな家は雨の音以外、何も聞こえなかった。
音を立てないように時雄はゆっくりと廊下を進み、汗ばんだ手で寝室の戸を開けた。
そこで目にしたものは、今でも夢の中に時々出てくる。
ベッドの上に二人がいた。
千鶴と、そしてもう一人の男。最悪なことに、その男は時雄のよく知っている男だった。
二人は裸でシーツにくるまっていた。
そして―――夫婦は終わった。

「あのとき、君は何も語らなかった。何も言い訳をしなかった。ただ『ごめんなさい』『離婚してください』と言うばかりだった。僕は君を憎んだ。怒りのあまり殴りさえした。それでも君は何も言わなかった。最後には何もかもどうでもよくなって、離婚に同意した」
時雄は一気にそう語ってから、ほうっとため息をついた。
「正直に言うよ。今でも時々そのことを悔やんでいる」
「あなたには本当に悪いことをしてしまいました」
気がつくと、千鶴の瞳が潤んでいた。
「・・・いや、たしかに僕はあの頃いい夫じゃなかった。仕事にかまけて夫らしいことはは何ひとつ・・・。だから今でもずっと後悔しているんだろう」
「あなたはいい夫でした。それは私が誰よりもよく知っています」
千鶴は小さな、しかしはっきりした声でそう言った後、上目遣いに時雄を見た。
「ごめんなさい。それならなぜあんなことになったんだと仰りたくなったでしょう」
「いや・・・」
一瞬否定しかけた時雄だったが、ふと黙ってグラスを見つめた。
「そうだな、正直に言ってそう思った」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。ただ・・・理由を教えてくれないか。そうでなければ、僕はいつまでも先に進めそうにない」
千鶴は瞳を伏せ、また哀しい顔をした。
形のいい額の下で、長い睫が震えていた。
やがて―――千鶴は顔をあげた。
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七塚 10/1(日) 21:47:36 No.20061001214736 削除

秋の日だった。
通山の大通りから少し外れた雑居ビルの二階にそのバーはあった。初めて入ったそのバーのカウンターで横村時雄が飲んでいると、ふと横からホステスの視線を感じた。
年のころは三十半ばくらいか。細面の顔、大きすぎるくらいの瞳が時雄の顔を見つめていた。
見間違えるはずもない。
「千鶴・・・・」
思わず呟いていた。
別れた妻、千鶴がそこにいた。
実に七年ぶりの再会だった。

「こうしていても、何から話していいか分からないが・・・まず言おう。今夜は久々に会えて嬉しかった」
「そう言ってもらえると、ほっとします」
時雄の言葉に、千鶴は顔をうつむきがちにしたまま小さく答えた。
その言葉の意味は、時雄にはもちろん分かる。
「・・・昔のことは忘れよう。さっきも言ったとおり、今夜は久々に君と会えて嬉しかったんだ。出来れば別れるときも、楽しい気持ちで別れたい」
すっと顔を上げて、千鶴は時雄を見つめた。昔と変わらず、いや昔よりもさらにほっそりと痩せている。
(少しやつれたか・・・)
時雄は思う。千鶴は時雄の心を読んだかのように、恥ずかしげにまた瞳を伏せた。
「だいぶ年をとったでしょう。恥ずかしい」
「お互い様だ。老け方なら僕のほうがひどい」
「あなたは昔と変わらない。いえ、昔よりも活き活きとして見えるわ。きっと充実した生活を送っていらっしゃるのね」
千鶴の言う「昔」が、二人が夫婦だった頃を指しているように聞こえ、時雄はとっさに何も言葉を返せなかった。

「今日は本当に驚いたわ。まさかこんなところで再会するなんて」
千鶴は相変わらず酒が強くなく、少し飲んだだけでほんのり赤くなっている。
「僕のほうこそ。まさか」
君がホステスをやっているなんて―――と言いかけて、時雄は黙った。少なくとも時雄の知っている千鶴は、およそ水商売とは生涯縁のなさそうな女だった。
千鶴はすべて察したように、
「いろいろあったんです」
と言った。
それは、そうなのだろう。でなければ、三十も半ばを過ぎた女が、こんな裏ぶれたバーでホステスなどやっているわけはない。
「ひとつ聞いていいかな?」
「どうぞ」
「君は再婚しているのか?」
少しのためらいの後、千鶴はうなずいた。
「・・・そうか。相手はやっぱり木崎なのか?」
昔のことは忘れよう、と自分から言っておきながら、時雄はやはり聞かずにはおれなかった。
千鶴はまたうなずいた。
「そうか・・・」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない」
そう言いながらやはり、時雄は胸を切り裂かれるような痛みを感じていた。
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