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北原夏美 四十路 初裏無修正

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桐 10/10(水) 21:37:27 No.20071010213727 削除
「最初からって、大学のサークルの頃からということですか?」
「麻里からその話を聞いたのか?」
「いえ。詳しくは」

江美子は首を振る。隆一は盃を座卓において、江美子に真っすぐ向き直る。

「今日あいつらに会わなければ忘れるつもりでいた。しかし、こうなったら江美子も気になるだろうし、やはり一度はちゃんと説明しておかなければならない」

隆一は意を決したように話し始める。

「俺と有川、そして麻里は大学で同じサークル、歳も同じだった。俺も有川も、麻里も合唱団のパートリーダーだったから、サークルの運営に関して集まって話をすることが多かった。男と女がほぼ同数のサークルだからカップルも出来やすい。麻里を好きになったのは俺と有川はほぼ同時だっただろう。有川は麻里に対して本気だったし、奴の方が積極的だったと思うが、結果的には麻里は俺を選んだ」

「麻里に対して失恋してからも、有川はサークルの役員としての務めは果たさなければならない。俺と麻里は有川に気を使って、出来るだけ奴の前では恋人らしい雰囲気を出さないようにはしていたが、それでも奴にはなんとなく伝わってしまう。いや、そうすることがむしろ奴を傷つけたかもしれない。有川としては結構辛い日々だったんだろうと思う」

「大学を卒業して2年目の年に俺は麻里と結婚した。俺たちは有川に、共通の友人として披露宴のスピーチを頼んだ。奴との友情をずっと大切にしたいと本気で思っていたし、それこそ有川が結婚でもすれば、家族ぐるみで付き合いたいなんて考えていた。若い頃というのは平気で、無神経で残酷なことが出来るものだ。俺が有川の立場だったら耐えられなかっただろうが、奴は平然と引き受けてくれた。俺も麻里も自分たちの幸せで、周りのことが見えなくなっていた」

「結婚した翌年に理穂が生まれた。愛する妻に可愛い娘を得て、俺は幸せの絶頂だった。仕事もどんどん忙しくなり、有川とだけではなく、大学のサークル仲間とは徐々に疎遠になっていった。麻里は大学を卒業後準大手の商社で働いていたが、いったんその会社を辞めて理穂を育てながら独学で二級建築士とインテリアコーディネーターの資格をとり、理穂が3歳になったときに実務経験がないのにもかかわらず中堅どころのリフォーム会社に採用された。そこで実績を積んで4年後に大手のハウスメーカーに転職した。その会社の取引先の不動産開発会社で営業をやっていたのが有川だ」

江美子は大きな目を丸くして隆一の話を聞いている。

「偶然ですね……」
「ああ」

隆一は頷き、日本酒を一口すする。

「その頃ちょうど悪いことに、俺も麻里も仕事が忙しくてすれ違いになることが多かった。俺は正直言って、麻里には家庭に入ってもらいたかったが、毎日活き活きと仕事をしている麻里を見ているとそんなことはいえなかった」

「麻里が本格的に仕事を始めてからは理穂はもっぱら俺の母が面倒を見ていたが、すっかりお祖母ちゃん子になっていた。麻里は麻里で理穂の面倒を見てもらっているという負い目があるためか、俺の母の前では遠慮がちだった。母も悪気はないのだろうがずけずけとものをいうところがあるため、麻里にはそれがかなりストレスだったのだろう。しかし俺に対してその不満を吐き出すことが出来ない。自分の勝手で俺の母に迷惑をかけていると思っているからな」

「そこで仕事のことも含めて愚痴の聞き役になったのが学生時代の友人ということもあり、気心の知れた有川だったのだろう。麻里も酒は嫌いな方じゃないから、仕事上の付き合いや女友達とたまに飲んでくるといっても俺は特に気にしていなかったんだが、後になって酒の相手はほとんど有川だということがわかった。こうなれば有川の方には元々その気があるのだから、男と女の関係になるのは時間の問題だ」
「でも」

江美子は隆一の告白に息を呑む。

「誰もが必ずそうなるとは限らないんじゃ」
「それはもちろんそのとおりだ。その意味では麻里にも責任がある。麻里が俺を裏切ったというのはその点だ。しかし俺も麻里の悩みに真剣に向き合っていなかった」
「けれどそれは、働く母親なら誰でも持つような悩みでしょう?」
「そういった場合、多くは自分の母親を頼る。しかし麻里は小さい頃に母親を亡くしているから相談したり頼れる相手がいない。中途採用で入社した職場では弱みを見せられないからな。だからこそ自分は理穂を失いたくなかったんだろうが」

隆一は顔を上げて、江美子の方を見る。

「俺の気遣いが足らなかった。仕事をしているもの同士、また理穂の父親として、もっと麻里の悩みを聞いてやれば良かったんだ」
「私は隆一さんに色々、悩みを聞いてもらいました」
「そうだったな」

隆一は静かに笑い、盃の酒を飲み干す。
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桐 10/10(水) 21:36:41 No.20071010213641 削除
江美子が隆一を裏切らないことを確認したことで安心したのか、それからは理穂は江美子に対して屈託のない態度を示すようになった。江美子はその時の理穂との会話を隆一に対して伝えることはなかった。

理穂は隆一と麻里が離婚するに至った事情を正確に理解しているわけではないだろう。しかし、自分の母親が父親を裏切るようなことをしたということには気づいており、そのため心になんらかの傷を負っているようだ。

(早熟な子だわ。私が中学生の頃はもっとのほほんとしていたのに。見たくもない両親の修羅場を見てきたせいかしら……可哀そうに)

江美子は理穂の年齢に比して大人びた表情を思い出す。

(私が隆一さんとしっかり信頼関係を築くことで、理穂ちゃんにとっても心が休まる家庭を作らないといけないわ)

江美子はそう思い定めると、隆一に切り出す。

「……さっき、お風呂の中で麻里さんと会いました」
「そうか……」

隆一は更に目を落としたまま答える。

「何か話をしたか?」
「ここで出会ったのはやはり偶然だと……でも、理穂ちゃんと時々連絡は取り合っているとおっしゃっていました」
「え?」

隆一は顔を上げる。

「それは気がつかなかったな」
「携帯のメールらしいです」
「俺との連絡にも必要だからということで、中学に上がるときに買ってやったんだ。それなのに俺には滅多にメールなんかよこさないと思っていたが」
「女同士、相談したいこともあるんでしょう」

自分の言葉がフォローを入れたつもりが、そうではなくなっていると江美子は感じる。麻里は「最低限の連絡」としか言っておらず、理穂から何か麻里へ相談しているなどとは話していなかった。どうしてそれをちゃんと隆一に説明しないのか──江美子は自分で自分の心がわからない。

「相談か。相談なら江美子にしても良さそうだが」
「私はまだ理穂ちゃんとはそこまでの信頼関係はないんでしょう」

どうしてだろう。私は隆一さんに対していじけた言い方をしている。こんなからむような酔い方はしなかったはずだ。

「理穂とあいつの間に信頼関係があるとは思えないがな」

隆一は微かに苦笑を浮かべて首をかしげると、盃の酒を空ける。隆一が麻里のことをやや悪し様に言ったことに気持ちの安らぎを感じた江美子は愕然とする。

(嫉妬……)

江美子はそこで初めて自分の心の裡に気づく。

(私は麻里さんに対して嫉妬をしている。隆一さんを裏切り、とうの昔に別れたはずの麻里さんに。麻里さんが理穂ちゃんと今でも繋がっていることに嫉妬しているんだ)
(それとお風呂の中で麻里さんが私に言ったこと。麻里さんと私はどちらも隆一さんの好きなタイプの女──そのことに拘っている。隆一さんが私の中に、麻里さんの面影を見ているのではないかということがひっかかっている)

「ねえ、隆一さん」
「なんだ」
「麻里さんとは、どうして別れたんですか?」
「それはさっき話しただろう」
「有川さんという男性が、隆一さんから麻里さんを奪ったと」
「そうだ」

隆一は空いた盃に酒を注ぎ足す。

「麻里さんが隆一さんを裏切ったということですか?」
「そういう風に言えば、そうなるかもしれない。しかし、夫婦というのはどちらかが一方的に悪いというわけではない。麻里とのことは俺にも責任があるのだろう」
「そんな」
「結局麻里は俺ではなく、有川を選んだということだ。いや、最初からそうだったのかもしれない」
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桐 10/9(火) 21:28:01 No.20071009212801 削除
江美子が風呂から帰ると隆一は既に部屋に戻っていた。間もなく部屋に二人分の料理が運ばれてくる。用意を終えた仲居が下がると、旅館の浴衣を身につけた隆一と江美子は座卓に向かい合って坐る。

「この旅館は部屋食なのがいいな」

江美子からビールの酌を受けた隆一が、江美子のグラスにビールを注ぎながら呟く。

「他のお客と顔を合わさなくていいからですか?」
「そうだ」

隆一はそう言うと微笑し、手に持ったグラスを江美子のグラスに触れさせて「乾杯」と言う。

「何の乾杯ですか?」
「結婚一周年だ」
「記念日は来月ですわ」
「わかっている。だいだいで、っていうことだ」

空になったグラスに江美子がビールを注ぐ。

「別に来月、お祝いをしないっていう意味じゃないぞ」
「わかっていますわ」
「来月は理穂と三人でやろう。今晩は二人だけで前祝いだ」

隆一は旨そうに二杯目のビールを飲むと、再び江美子のグラスを満たす。

「ここからは手酌でやろう。料理も旨そうだ」

隆一は前菜をつつき出す。しばらくの間隆一と江美子は、新鮮な山菜や川魚を中心とした料理に集中する。

「この山女も旨いな」
「そうですね」

隆一は山女の塩焼きの身をほぐしたのをつまみに、常温の日本酒を飲んでいる。江美子も酒は嫌いではないが、それほど強くはない。隆一に付き合っているうちに江美子の顔は薄い桃色に染まっている。

江美子は先ほど麻里から聞かされたことを話題に出そうか迷っていた。結婚するにあたって隆一に離婚歴があることは知っていたが、「性格の不一致」と説明する隆一に対して深く尋ねることはなかった。

江美子自身が今時離婚など珍しくないと考えていたことと、通常なら母親が引き取るはずの娘の理穂を隆一自身が引き取っていることから、隆一に大きな落ち度はなかったのではないかと判断したことが理由である。

江美子は結婚する前に隆一から理穂に引き合わされた時のことを思い出す。イタリアンのレストランで江美子と向かい合って食事をしながら愛想よく話をしていた理穂が、隆一が急な仕事の電話で席を外した時、声を潜めて江美子に囁いた。

「江美子さん、パパがママと離婚した本当の理由を聞かされている?」
「いえ……」
「それなら教えて上げる。絶対に知っておいた方がいいから」

身を乗り出すように話す理穂の言葉に江美子は思わず聞き入る。

「ママがパパを裏切ったの。男を作ったのよ」
「えっ……」

理穂の言葉に江美子は衝撃を受ける。

ひょっとしてそういうことではないかとは思っていたが、まだ中学1年の理穂があまりに生々しい言葉を発したことにむしろ驚いたのである。

「パパは江美子さんに対して、ママが一方的に悪いというような言い方はしていないでしょう?」

その通りなので江美子はうなずく。

「パパはそういう人なの。自分にも責任があると思ってしまう。でもパパは全然悪くないわ」

理穂は真剣な表情を江美子に向ける。

「江美子さんはパパを裏切らないでね」
「えっ」

江美子は理穂の迫力に気圧されそうになる。

「もちろんよ。そんなことはしないわ」
「良かった」

江美子の言葉に理穂はにっこりと笑みを浮かべる。

「約束よ」
「ええ、約束するわ」
「それなら私はパパと江美子さんの結婚には大賛成よ」
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桐 10/9(火) 21:26:58 No.20071009212658 削除
「でも、有川さんが言ったとおりかもしれません……」
「えっ?」

考えに耽っていた江美子は、麻里がじっとこちらを見つめているのに気づく。

「隆一さんが好きな女性のタイプというのがあるんでしょうね。あの人の譲れない好みは目元がはっきりしていること。胸の大きさにはあまり拘らないけれど、お尻が大きめでしかも形がいいこと。その2つです。江美子さんはそれを両方とも満たしていますわ」
「そんな……」

江美子にとってはコンプレックスだったお尻の大きさを麻里から指摘されたことも恥ずかしかったが、有川という男は麻里から、隆一の好みを聞いていたのかと少々不快な気分にもなる。

麻里はそんな江美子の疑念を察したかのように再び口を開く。

「いえ、有川さんがそういったのは、あの人が昔から隆一さんの好みを知っていたからです」
「どういうことですか?」
「隆一さんと有川さんは、大学時代のサークル仲間だったんです。隆一さんたちの大学を中心とした合唱団で、隆一さんがセカンドテナーのパートリーダーで、有川さんがバリトンのリーダー。私は2人とは違う大学だったけれど、同じサークルに所属していて、そこで彼ら二人と知り合ったのです」
「そうなんですか……」

有川という男と隆一がサークル仲間だということは先ほど隆一から聞いていたが、それ以外は江美子にとっては初耳である。

「江美子さんは私のことを隆一さんから聞いていないんですか?」
「いえ、ほとんど何も」
「あら、そうなんですか?」

麻里は少し驚いたような表情になる。

「隆一さんと有川さんは単なるサークル仲間というだけでなく、音楽の趣味もぴったり合っていて、お互いが一番の親友だと言える仲だったんです。おまけに女性の好みも同じ。目元がはっきりしていてお尻が大きめの女、っていうのは有川さんの好みでもあるんです」

麻里は微妙な笑みを浮かべる。江美子は何と反応したら良いかわからず、やや当惑した表情を麻里に向けている。

「ごめんなさい、少し喋りすぎたかしら」
「いえ……」
「なんだか江美子さんのことを品定めするような言い方をしてしまったわ。初めてお会いしたような気がしなくて、失礼なことを申し上げてごめんなさいね」
「そんな……いいんです」
「隆一さんのことは隆一さん自身から聞かされるべきね。あの人とはもう他人になった私なんかがおせっかいをするのは良くない。それは分かっているのだけれど……」

麻里はそう言うと少し顔を逸らす。

「あの人には……今度こそ幸せになって欲しいの」
「……麻里さん」
「これも余計なことですね。あなたのような女性を見つけたのだから、今はきっと幸せなんでしょう。いえ、これからもずっと」

麻里は湯船の中で立ち上がる。

「本当は私がこのままここから姿を消した方が、江美子さんの気持ちは穏やかになるのだろうけど……」
「そんな、私はかまいませんわ」

江美子は首を振る。

「隆一さんの昔のことを少しでも知ることが出来て良かったです」
「そう、ありがとう。それじゃあ出来るだけあなたたちのお邪魔にならないようにするわ」

麻里はそう言って微笑むと江美子に「お先に」と声をかけ、脱衣所へと歩き出す。湯に濡れてキラキラ光る麻里の白く豊満な臀部が左右に揺れるのを、江美子はぼんやりと眺めていた。
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桐 10/8(月) 22:23:26 No.20071008222326 削除
「あの……理穂ちゃんはお母様と連絡をとっているのですか」
「はい」

頷く麻里を見て江美子は更に尋ねる。

「隆一さんと離婚されてからは、お会いになっていないと聞いているのですが」
「会ってはもらえませんが、たまにメールで最低限のやり取りは。私がいなくなってからは理穂が家のことを取り仕切っていましたので」
「あの……ここに私たちが来ることをご存知だったのですか?」

ひょっとして麻里が、自分と隆一がTホテルに来ることを理穂から聞いて、わざといっしょの宿をとったのではないかと疑ったのである。

「とんでもありません。私もまさか隆一……さんと会うなんて思ってもいませんでした。もしそんなことになるのが分かっていれば有川さんのお誘いを断っています」
「有川さんって……そう言えば、さきほど麻里さんは中条とおっしゃいましたが」
「中条は私が結婚する前の姓です。離婚したので旧姓に戻りました」
「有川さんとはご結婚されていないのですか?」
「はい。私は二度と結婚するつもりはありません」

麻里はきっぱりとした口調で言う。

「私のような女が結婚すると、周りを不幸にするだけです」
「……」
「江美子さんとおっしゃいましたっけ、私がいえるようなことではありませんが、隆一さんを幸せにしてあげてください。そして、出来れば理穂も……」

麻里は湯船の中で深々と頭を下げる。江美子はそんな麻里をしばらくじっと見つめていたがやがて「麻里さん、頭を上げてください」と声をかける。

「私は麻里さんから頭を下げられるようなことはしておりません。ただ隆一さんが好きで……一緒になっただけです。理穂ちゃんと私は家族ですし、仲良くしたいと考えていますが、理穂ちゃんの母親は麻里さんだけだと思っています」
「私には母親の資格なんて……」
「子供にとって、自分を産んだ母親は掛け替えのないものだと思います」
「……ありがとうございます」

麻里は顔を上げて、江美子に微笑みかける。

「それにしても、こんなところで一人の男の前の妻と今の妻が裸のまま挨拶を交わすなんて、考えてみたらちょっとおかしいですわね」
「そういえば」

麻里の言葉に江美子もなんとなく滑稽な気分になる。

「江美子さんには不愉快な思いをさせてしまってどうもすみません。隆一さんによく説明しておいてください。今回のことは本当に偶然なのです」
「わかりました」

江美子も微笑んで頷く。

お互い裸で入るせいか、江美子は麻里に対してなぜか打ち解けた気分になる。

「そうですか、インテリアコーディネーターなんて素敵ですね」
「全然素敵なんじゃないんです。カタカナでなんとなく格好良さそうに聞こえるだけで、本当は泥臭い仕事なんですのよ」

お互いの仕事の話をしているうちに、江美子は麻里が隆一の先妻だということにも不思議と抵抗がなくなってくる。

「江美子さんはおいくつですか?」
「今年33になりました」
「まあ、お若いんですね。羨ましいわ」
「そんな……もうおばさんですわ」
「33でおばさんなら、私なんてどうなるの。来年で40よ」

麻里はくすくすと笑う。

(……ということは隆一さんと同い年)

江美子はちらちらと麻里の白い肌を眺める。

(それにしては綺麗な肌をしている……私よりもずっと色が白くてきめが細かいかも)

江美子がそんなことを考えていると、麻里が思い出したように口を開く。
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桐 10/8(月) 22:21:56 No.20071008222156 削除
「本当ですか?」
「本当だ。麻里がここに来ているなんて思いもしなかった。いや、もしも俺との思い出の宿ならなおさら、あいつに来れるはずがないと思っていた」
「私をここに連れてきたのは、それだけが理由なんですか?」
「そうだ」

江美子はしばらく目を伏せていたが、やがて顔を上げる。

「わかりました。隆一さんの言うとおりだと信じます」

江美子はそう言うと柔和な笑みを浮かべる。

「隆一さんは気になりますか? 麻里さんのことが」
「いや……」

隆一は首を振る。

「さっきはいきなりだったからこちらも驚いただけだ。あれからもう5年以上もたつし、俺には今は江美子がいる」
「それなら、折角の旅行ですから、楽しみましょう。こちらが気にしなければいいだけのことです」

江美子は冷めかけたお茶を一気に飲み干す。

「お茶を淹れなおしましょうか」
「いや、だいぶ歩いたせいか、喉が渇いた。俺もこれでいい」

隆一も湯飲みの中のお茶を飲み干す。

「それじゃあ、お食事前にお風呂に行きましょう」

江美子は立ち上がると隆一を誘った。


Tホテルは和風の温泉旅館であり、男女別に別れた室内の大浴場だけでなく、タオル着用の混浴の露天風呂、またいくつかの貸切の家族風呂がある。江美子は隆一と別れ、室内の女湯に向かった。

チェックイン間もない時間でもあり、風呂には先客は3人しかいない。うち一人は60過ぎ、もう2人は江美子とほぼ同年代と思われる母親とその娘らしい少女である。

少女は母親に髪を洗われながらきゃっ、きゃっと楽しそうにはしゃいでいる。江美子はそんな母娘の姿をぼんやりと眺めている。

(理穂ちゃんと麻里さんも、やはりこのお風呂の中であんな風に楽しそうにしていたのだろうか……)

母親はケラケラと笑う娘をたしなめつつも、慈愛のこもった眼差しを向けている。江美子は軽く身体を洗うと湯船に浸かり、ゆっくりと手足を伸ばす。

日頃溜まった疲れが湯の中に溶けていくようである。江美子は母娘の姿を見ながら先ほど出会ったばかりの麻里のうろたえたような顔を思い出す。

(麻里さんはやはり理穂ちゃんと暮らしたいだろう。理穂ちゃんも本当はそうなのでは……)

母と娘は仲良くてを握り合って風呂から出る。江美子がぼんやりと湯船に浸かっているうちに何時の間にか60過ぎの女性はいなくなっている。一人になった江美子がうとうとしていると、扉が開く音がして新たな客が入ってくる。

顔を上げた江美子は、それが麻里であることに気づく。

「あ……」

麻里は一瞬戸惑ったような顔をするが、やがてお辞儀をすると洗い場に腰をかけ、軽く身体を洗い、湯船に入ってくる。

「先ほどはご挨拶もせずに失礼致しました。中条麻里と申します」
「こちらこそ失礼しました。北山……江美子と申します」

裸のまま2人の女は湯船の中で向かい合う。

「いつも理穂が大変お世話になっています」
「いえ……」

江美子は首を振ろうとして、麻里に尋ねる。
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桐 10/8(月) 22:20:37 No.20071008222037 削除
旅館を出た隆一と江美子が、川沿いの道を10分ほど歩くと木製の吊橋に着く。橋の向こうから歩いてくる男女2人連れを目にした隆一は急に立ち止まる。

「どうしたんですか」

江美子が怪訝な表情をする。2人の男女も隆一に気づいたのか、一瞬顔をこわばらせるが、すぐに平静を保ち隆一に近づいてくる。

「これは北山さん、こんなところで会うとは奇遇ですね」

男は不自然な笑みを浮かべながら隆一に話しかける。

「……どうも」

隆一は頷いて男の後ろに隠れるようにしている女に目を向ける。女はこわばらせたままの顔を隆一からそむけるようにしている。

「どちらにお泊りですか」
「……Tホテルです」
「そりゃあますます偶然だ。我々も昨日からそこに泊まっているんですよ」

男は笑顔を浮かべたまま隆一の顔をじっと見る。たまりかねた隆一が顔を逸らすと、男は口元に勝ち誇ったような笑いをうかべ、江美子に視線を移す。

「こちらは、奥様ですか」

隆一が答えないので、江美子は仕方なく「はい」と返事をし、頭を下げる。

「そうですか」

男は笑いを浮かべたまま振り返ると、背後の女に声をかける。

「やはりどことなく麻里に似ているな。女の趣味というのは変わらないもんだ」

男はそう言うと声をあげて笑う。女はじっと顔を逸らせていたが、やがて「もう、いきましょう」と男に声をかける。

「それじゃあ、また」

男は薄笑いを浮かべたまま隆一に会釈をすると、隆一たちが来た道を旅館に向かって歩き出す。女は深々と隆一に向かって頭を下げ、男の後を追う。硬い表情で立ち竦んでいる隆一に、江美子が気遣わしげに声をかける。

「隆一さん……今の人たちは」

隆一は江美子に背を向けたまま川面に視線を落としている。

「別れた妻の麻里だ」
「すると、男の人の方は……」
「有川誠治、俺の大学時代のサークル仲間だ」

隆一は掠れた声で答える。

「そして麻里を、俺から奪った男だ」


隆一と江美子はその後30分ほど無言のまま散歩を続けると宿に戻る。チェックインを済ませて部屋に案内された2人はお茶にも手をつけないで黙ったまま座卓越しに向かい合っていたが、やがて江美子がたまりかねたように口を開く。

「隆一さん、どうして麻里さんがここに」
「わからん」

隆一は首を振る。目を上げた隆一は江美子が必死な顔つきをしているのに気づき、言葉を継ぐ。

「本当だ。有川の言っているとおり偶然だろう」
「そうなんですか?」
「……ただ、このホテルは以前、麻里と理穂の家族3人で泊まったことがある」

「麻里さんとの思い出の宿って言うことですか」

江美子の表情がさらに強張ったのを見て、隆一は弁解するように続ける。

「違う。ただその時、料理も応対もとてもいい宿だと感じた。だから江美子を今回連れて来たいと思ったんだ。お互い忙しくて、ようやく2人で来れた一泊旅行だから、あえてはずれを引きたくなかっただけだ」
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桐 10/8(月) 22:19:13 No.20071008221913 削除
横浜を出るころは雲が多かった空も、K温泉に着いた時はすっかり晴れ上がっていた。紅葉にはまだ早いが、かえってそれだけに有名な温泉地とはいえ降車客も多くない。急に思い立った旅行だったが、希望の宿も問題なく予約することが出来た。

「気持ちいいわ、これこそ秋晴れって感じですね」

駅前に降り立つと、オレンジ色のニットのトップに白いパンツ姿の江美子が両手を上げて大きく伸びをする。明るい栗色に染めたウェーブのかかった髪が陽光にきらめくのを隆一はまぶしげに見つめる。

隆一は地面に置いた江美子のバッグを空いた手で持つと、タクシー乗り場に向かう。

「あん……自分の荷物は自分で持ちますよ」

江美子が小走りで隆一を追いかける。隆一はドアを開いたまま客を待っている数台のタクシーのうち、先頭の車に乗り込むと「Tホテル」と行き先を告げる。

「チェックインにはまだ早いから、ホテルに荷物を置いて少しその辺りを散歩をしよう」
「そうですね、2人とも日頃運動不足ですから」

江美子がにっこりと笑うのがドアミラーに写る。

「江美子」
「何ですか?」
「その丁寧語はやめろ」
「だって……習慣になっていますから、すぐには直りませんわ」

江美子は少し困ったような顔をする。

隆一と江美子が出会ったのは今から2年前、隆一が37歳、麻里が31歳のころである。大手都市銀行の一角、首都銀行の審査1部に審査役として配属された隆一は、そこの企画グループに所属していた古村江美子と出会った。

一度結婚生活に破れた経験のある隆一は、女性と付き合うことについては臆病になっていた。しかし、江美の育ちのよさから来る天然のアプローチが次第に隆一の心を動かし、一年後に2人は結婚した。

首都銀行は同じ職場の行員同士が結婚すると、どちらか一方は転勤しなければならない内規がある。このため江美はターミナル店舗である渋谷支店の営業部に異動となり、法人営業の仕事に就いている。

タクシーは15分もしないうちにホテルにつく。フロントに荷物を預けて身軽になった隆一と江美子は、再び外へ出る。

「いい眺めですわ」

くっきりとした山並みを見ながら、江美子が溜息をつくように言う。色づき出した木々が美しいまだら模様を作っている。

「理穂ちゃんも一緒だったら良かったですね」

江美子の視線に少し翳りが差したのに隆一は気づく。

「今回の旅行は理穂が勧めてくれたんだ。その気持ちをありがたく受け取っておこう」
「そうですね」

隆一には先妻との間に出来た娘、理穂がいる。5年前に先妻と離婚したとき、小学3年だった理穂にはまだ母親が必要だと隆一は考えたのだが、理穂は母親と暮らすことをはっきりと拒絶した。そればかりでなく、理穂はずっと母親との面会も拒んできた。隆一は娘に根気強く、母親と会うことを奨めたのだが、理穂は頑として受け付けなかった。

江美子と結婚が決まってからは、隆一も娘と母親を会わせることを諦めるようになった。隆一は江美子が理穂とすぐに家族同様にはなれないかもしれないが、いずれはよき相談相手にはなれるのではないかと期待した。そのためには理穂に、母親と会わせることを奨めるのはむしろ弊害になるのではないかと思ったのである。

隆一が江美子と結婚したいということを話したとき、理穂は少しショックを受けたような顔をしたがすぐに平気な顔をして、「良かったじゃない、お父さん」と微笑した。3人で暮らすようになってからも、理穂は江美子に対して屈託のない態度を示したが、それは隆一には、まるで年の離れた姉に対するようなものに見えた。

理穂が江美子のことを母と呼ぶ日が来るのかどうか、隆一には分からない。継母と娘の葛藤といったことは一昔前のドラマや小説ではよく聞くはなしだが、離婚がごく当たり前になった現在ではさほど珍しいものではないのかもしれない。今年中2になった理穂が江美子のことをどう位置付けるのかは理穂自身に任せようと、隆一は考えていた。
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七塚 11/8(水) 00:52:32 No.20061108005232 削除

 やがて、時雄は口を開いた。
「君の言いたいことは分かった。どれだけ理解できているのか心もとないけれど、君の気持ちも俺なりに分かったつもりだ。そのうえで言いたい。君はあまり何もかも背負い込もうとしすぎだよ」
 固く握り締められたままの千鶴の小さな拳を見つめながら、時雄は言った。
「さっき病室でお母さんが言っていたよ。何事も頑張りすぎはよくない、ほどほどが一番だとね。誰でも綺麗なだけじゃ生きていけない。エゴのためによくないことや醜いこともする。誰かを犠牲にすることもある。それが本当に生きているってことじゃないのか。たしかに俺は君が出て行ったとき、辛い思いをした。その後も、ここ最近もずっと辛かった」
「ごめんなさい」
「まあ、聞いて。辛かったのは君が好きだからだ。ずっと好きだったからだよ。でもその思いは俺のもので、君のものじゃない。木崎も木崎なりに君のことは愛していただろうが、それと君の思いとは関係ない。君は誰かに何かに縛られる必要はないんだ。すべてのことに矛盾なく辻褄を合わせるなんて、世界中のどんな奴にだって出来るはずはない。皆、違った人間なんだ。だから憎んだり、怒ったり、哀しいことが起きるんだけど。でもそのうえで、出来るかぎりで誰かと心を合わせて生きようとしている」
「そうだとしても・・・自分のしたことの責任は取らなければなりません」
「それはそうだろうけど・・・だけど、少なくとも今の俺にとっては、本当はそんなことは重要じゃない。罪滅ぼしなんて望んでいない。君にとってはまた違うんだろうけど、俺は」
 責任とか、過去とか、罪とか。
 裏切りだとか、後悔だとか。
 そんなことはもうどうでもいいじゃないか。
 俺はただ、好きなだけだ。君のことが好きで、ずっと一緒にいたいだけだ。
 本当はそう叫びたかった。だが、時雄は言わなかった。そんな言葉で片付けるには、千鶴の迷い込んだ深遠はあまりにも深すぎた。どんな言葉も今の千鶴には届かない。彼女のくぐり抜けてきた暗闇の一部を覗き見た時雄だから、なおさらそう思えた。
 
「・・・君がどうしてもそうしたいと言うなら、俺にはとめられない。ただ、俺にも君を助けさせてほしい。言っておくが、木崎には金を返す必要はない。君も俺もそのために十分すぎる代償は払っている。それは木崎にも言い、奴もそれを受け入れた。もうひとつ、久恵さんの治療費に関しては、俺にもその負担を分けてほしい」
「お気持ちはありがたいです。でもこれ以上あなたに迷惑は」
「迷惑なんかじゃない」
 時雄は強い調子で、千鶴の言葉を遮った。
「久恵さんは俺にとっても大切な人なんだ。役に立てて嬉しいとは思っても、迷惑だなんて思いはしない。それは君に対しても言えることだ。俺は今でも君が好きだ。君のためならなんでもしたいと本当に思っている。だけど、今の俺が何をしても、それがまた君を縛ってしまうことになると思う。俺が金の問題を肩代わりして、君が俺のもとへ戻ってきてくれたとしても、それでは木崎と同じことになってしまう。君は俺に対して負い目を感じ続け、また別の人形になってしまうと思う。そんなことは俺も望んでいないよ」
 千鶴は黙ってうつむいた。その細い頸を時雄は見ていた。
「だけど、どうであれ、俺は君にこれ以上不幸になってほしくない。だから」
 時雄は一瞬、ためらった。その先の言葉は、本当は口に出したくなかった。
 だが―――言わなければならない。
「君がこの先、普通の仕事をして普通に生活していけるだけの生活費を考えた範囲で、俺も久恵さんの治療費を分け合う。何度も言うが、これは俺からの気持ちで出すお金で、何も負い目を感じる必要はない。でも、いくらそう言ったところで君の気持ちは納得しないだろう。だから―――俺はもう君には会わないことにする。連絡も取らない」
 千鶴の瞳が驚きで大きく開かれた。悲痛な想いでそれを見つめながら、時雄は言葉を続ける。
「俺のために何かしなければならないなんて思わないでもいい。俺は木崎にはなりたくない。これ以上、金や自分の気持ちで君を縛りたくない。君が自分の意思で生きていこう、そうすることで立ち直ろうとしているなら、決してその邪魔をしたくない。だから・・・もう会わない」
 本当は厭だった。
 どんなことになっても、ほかの誰かを傷つけてでも、千鶴の傍にいたかった。ずっと一緒に生きていきたかった―――。
 けれど、せっかく前向きに生きようとしている千鶴を縛りたくないというのも本心だった。千鶴が自分の意思と心で生きていこうと決意したなら、それを引き止めるような真似はしたくなかった。そうしなければ千鶴の心が救われないなら―――。
 突然告げられた別れの言葉に、千鶴は呆然としていた。やがて、大きく開いたままの瞳から、涙が後から後から零れだした。千鶴の震えた唇が動き、何か言おうとしたが、言葉にならないまま、また閉じられた。
 願わくば―――と時雄は思う。今の別れの言葉を、己に与えられた罰のように千鶴が受け取らないで欲しいと思う。そんなつもりは微塵もない。本当に千鶴を愛している。だから、今は彼女から離れなくてはならない。

 そのまま二人は、何も言わずにいつまでもそこに座っていた。


 一組の元夫婦の事情などかまうはずもなく、時間は流れ、過ぎてゆく。
 千鶴と再会し、また別れたあの秋から、季節は変わって冬になり春になり夏になり、そしてまた秋になった。
 時雄は相変わらず独りだった。周囲の状況にも変化はない。ただ淡々と仕事に精を出しているだけだ。
 千鶴とはあれから一度も会っていない。言葉どおり、千鶴の口座に毎月相応の金額を振り込んでいるが、それを本当に千鶴が使ってくれているかどうかも分からない。そうしてくれればいい、と祈るような想いでいるだけだ。

 先日、久しぶりに久恵の見舞いに行った。久恵は相変わらず時雄と千鶴が今も夫婦でいると思い込んでいる。それが辛くて、あまり見舞いにも行けない。千鶴と会ってしまう可能性もある。本当はそんな偶然が訪れることを心の底で願っているのが自分でも分かるので、なおさら時雄は行かない。
 自分から会うことはしないが、もう二度と千鶴と会えないと決まったわけでもない。もし、千鶴が立ち直り、彼女から会いにきてくれたら、もう一度ただの男と女としてやり直すことが出来るかもしれない。そうならなくても、千鶴が幸せになってくれればそれでいい。一年前、あの辛い日々の中でもがき苦しんだ意味はそれで十分にある。

 その先日の見舞いの時、時雄は久恵から千鶴の描いた花の絵をひとつ分けてもらった。時雄の一番好きな花を。

 だから時雄の何もない部屋では、季節外れの一輪のヒナギクだけが、今もそっと咲いている。

                          <了>
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七塚 11/8(水) 00:42:55 No.20061108004255 削除

「千鶴・・・いつから?」
 時雄の問いに、千鶴は人差し指を口元へ持っていっき、目で久恵のベッドを指した。久恵は安らかな眠りについていた。
 時雄は納得して立ち上がり、そっと病室の外へ出た。千鶴も着いてきて、静かに戸を閉めた。

 病院のすぐ傍にある喫茶店は、平日の昼間だというのに混んでいた。
 二人ともコーヒーだけを注文した。
 千鶴はじっと時雄を見て、細い声で言った。
「驚きました。どうしてここが分かったのですか?」
「木崎に聞いた」
 時雄の答えに、千鶴は瞳を少し見開いた。
「・・・また木崎に会ったのですか?」
「探したんだよ。結局は向こうから会いにきたんだがね。木崎も君を探していたんだ」
「そうですか・・・」
「なぜ出て行ったんだい?」
 その問いは、三日前の夜に時雄の部屋から姿を消したことと、木崎のもとを離れたことの両方の理由を聞いていた。
 千鶴は重ねた両手を擦りながら、しばらく黙っていた。
 次の言葉を待ちながら、時雄は店内のざわめきを聞いていた。七年ぶりに再会してからずっと非日常的な状況でしか会う機会がなかったが、こうして穏やかな昼下がりにありふれた喫茶店で千鶴と向かい合っていると、一瞬、昔に戻ったような錯覚に陥る。あるいは先ほどの久恵との会話が、時雄をそんな気にさせるのかもしれない。

「・・あなたと再会してから、私、考えたんです」
 突然、千鶴はそんなことを言った。先ほどの問いの答えではなかったが、時雄は黙って先を促した。
「あの夜、あなたと向かい合って、昔、あなたにしてしまったひどいことの話を聞いてもらって・・・、でもあなたは私を救いたいと言ってくれました。凄く嬉しかったです。でも・・・同時に恥ずかしくなりました。自分が恥ずかしくなりました」
 千鶴は身を震わせて、合わせた掌をぎゅっと握った。
「身勝手な私のせいで、あなたを傷つけて・・・ずっと傷つけて・・・。それなのに、あなたは変わらなくて・・・。そんなあなたを見ていたら、自分がどれだけ醜い人間だったか思い知って、いたたまれなくなりました。だから」
「・・意味が分からないよ。君はたしかに俺に何も告げず出て行った。そのことは今でも怒っているし、悔やんでもいる。でもそれからの君の人生は、色々な不幸な偶然と木崎のせいで大きく歪められてしまっただけだ。醜いとか、恥ずかしいとか、そんなふうに思う必要はない」
 時雄は慎重に言葉を選びながらそう言った。だが、千鶴は静かに首を振った。
「違うんです」
「何が違う?」
「・・人生は何をして生きたか、ではなく、どういう態度で生きたかが一番重要だという言葉があります。誰の言葉かは知りませんが、本当にそのとおりだと思います。そして私はその意味で最低な生き方をしてしまったんです。たしかにはじまりは不幸が重なった結果といえるかもしれません。でも、その後で、その不幸に流されてしまったのは紛れもなく私なんです。そして自分だけでなく、あなたの人生まで深く傷つけてしまった」
 そう語る千鶴の顔に、この前の涙はなかった。ただ、厳しい覚悟のようなものが、その瞳の奥に窺えた。
「私は傷つくのを恐れて、逃げ回ってばかりいた子供だったんです。昔からそうでした。あなたと会ってからも、あなたに頼りきりでずっと自分は安全なところにいたんです。覚えていますか? あなたが最初に私を好きだと言ってくれたときのことを。あのとき、私は本当に嬉しくて嬉しくて・・・でも、後になってふと思ったんです。私もずっとあなたのことを好きでしたけれど、もし、あなたからそう言ってくれなかったら、私からはきっと何も言えずにずっと長い間後悔しただろうなって。傷つくのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、結局、私は自分からは何もせずに逃げてしまっただろうなってそう思ったんです」
 千鶴の長い髪がはらりと揺れた。
「あなたと結婚して、幸せを手に入れた私は相変わらず変われないままで、そしてあんなことになってしまいました。そのときも私は何も言えなかった。そのせいであなたをもっと辛い目に遭わせてしまいました」
「・・・・・・・」
「その後も色々なことがあって・・・、最終的に私は木崎に助けられ、そして彼の人形になりました。彼にすべてを委ねてしまいました。・・・自分がひどいことをしている自覚はありました。こんなことになって、あなたには本当にひどいことをしてしまったと思っていました。・・・厭なことから逃げ回ったあげく、私は二重にあなたを裏切ってしまったんです」
 消え入りそうなほど小さくなっていく千鶴の声が、ざわめく店内で時雄の頭の中にだけにまっすぐ響いた。
「自分のしてしまったことを真剣に考えれば考えるほど、恐ろしい後悔と罪悪感でいっぱいになりました。そんな辛さから逃れるために、私は人形のようになっていたんです。人間はすべてを誰かに委ねて、自分の心で思ったり考えたりすることも放棄して生きるほうが楽なんです。その意味で私だって木崎を利用していたんです。木崎の奴隷のように生きることで、私は自分の罪や失ってしまった幸福の重さから逃れようとしました。途中で木崎もそんな私のことを本当に奴隷として扱い始めましたが、私は抵抗しませんでした。辛い目や酷い目に遭わされれば遭わされるほど、自分がひどい状態になればなるほど、私は自分を誤魔化すことが出来ました。一時だけですけれど。その後でまたより重苦しい気持ちがやってきて、私はどんどん自虐的になっていきました」
 似ている―――。
 時雄はそう思った。千鶴の語る言葉は昨日の木崎の話とどこか似ている。千鶴は精神的負担から逃れるために、木崎は千鶴の愛を受けられないという現実から逃れるために、いよいよ深い暗闇へ堕ちていった。まったく違う目的のため、手に手を取り合って。
「そんな日々を続けていたなかで、あなたと再会しました。あなたは何も変わっていませんでした。昔と同じようにまっすぐで、私のひどい話もきちんと聞いてくれて・・・。私はそんなあなたが嬉しくて、同時に自分がいかに醜い生き方をしているかを改めて悟ったんです。そんな自分が厭で厭で、あなたへの申し訳なさでいっぱいで・・・そのとき、思ったんです。もう遅いけど、してしまったことは消えないけど、これからは自分で自分のことを考えて、すべてから逃げずに生きていこうって。辛いこと苦しいこと、醜い自分からも逃げずに生きていこうって。それ以外は、自分の罪滅ぼしを本当にすることにはならないって・・・」
 千鶴は顔をあげてまっすぐに時雄を見た。
「ごめんなさい。私の話はあなたにとっては、意味が分からないかもしれません。そんなことよりも、もっと他にすべきことがあるんじゃないかって思われるかもしれません。でも、これが私の正直な気持ちです。今度は逃げないで、自分の力で母を救いたい。今まで傷つけたあなたへの罪滅ぼしもしたい。木崎に対しても、今までお世話になったお金はきちんと返します」
 しっとりと潤んだ千鶴の瞳に、燃えるような激しさを時雄ははじめて見た。
 息を呑むような思いだった。
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七塚 11/6(月) 20:07:12 No.20061106200712 削除

 翌日は月曜日だったが、時雄は仕事を休み、千鶴の母親が入院しているという病院へ向かった。
 病院の所在は木崎に聞いた。
 昨日の苦しかった木崎との対峙を、時雄は思い出す。

「お前が何をしようが、奪われた時間はもう戻ってこない。今さらその時間を返せとも言わない」

 両者ともに魂をすり減らすような時間の終わりに、時雄は木崎に対して言った。
「だが、これからも千鶴につきまとうことだけは絶対に許さない。お前が千鶴の母親のために使った金がどれくらいのものかは知らないが、お前はその代価を十分に支払わせたはずだ。これ以上、千鶴の人生を金で縛るな」
「・・・・・・」
「もし、またそんなことがあるようなら、どこにいてもお前を探し出して、今度こそ叩きのめす。絶対に」
 木崎は黙っていたが、その様子に昔のようなふてくされたところはなかった。憑きものが落ちたようなその姿は一回り小さくなったようだった。

「最後に聞きたい。千鶴の居場所の心当たりはあるか?」
「・・・お前のところにいないなら、あとはひとつしかない。母親のいる病院だ。この何年もの間、時間があれば千鶴はいつもそこに通っていた」
「場所は?」
 時雄の問いに、木崎は迷うことなく答えた。それからくるっと背を向けて玄関に向かった。
「じゃあな」
 振り返らないままに、木崎は言った。
「もう千鶴には会わない―――」

 病院の受付係にはある程度の真実を素直に告げた。自分が入院している紙屋久恵の娘の別れた夫であること、世話になった久恵の見舞いをしたいこと。幸い、受付係の女性はその説明を信じてくれたが、しばらくまじまじと時雄の顔を見て言った。
「あなた、ものすごく顔色がわるいですよ。帰りにうちの医院で検査されたほうがいいですよ」
 時雄は苦笑するしかなかった。あまりにも苛酷なこの数日のために、身も心も疲れきっていた。

「久恵さん、とてもいい方で私も大好きなんですけど、お年のせいか、最近はちょっと記憶が混乱していたりします。そのことを少し、心に留めておいてください」
 時雄を案内してくれた看護婦はそう言って、病室の戸を叩いた。
「久恵おばあちゃん」
 看護婦の呼びかけに、ベッドの上の老女が顔をあげた。
「ああ・・・時雄さん」
「お見舞いに来てくだすったんですよ」
 看護婦はそう言って、時雄を中へ誘い入れた。
「お久しぶりです」
「ほんに・・・」
 久々に会った久恵は、当然のことながら記憶の中の久恵より老い、身体も小さくなっていた。長年にわたる病床生活で、腕も足も折れそうなほど細い。だが、柔和なその表情、優しげな目元は以前のままだった。
「この人はね、私の娘の旦那さんなんですよ。とてもいい方よ。あの子もいいひとにもらわれて、私、本当に嬉しく思っているの」
 久恵は顔をほころばせ、看護婦に向けてそう言った。驚いた時雄がちらりとそのほうを見ると、看護婦は無言でうなずいてみせた。
「そうなの。よかったね、お婆ちゃん」 
「はい・・・」
 看護婦の言葉に、久恵はにこっと笑った。人の善意そのもののようなその笑みは、張りつめた時雄の心を優しく潤わせた。
 ―――この世で一番尊い笑顔だ。
 本当にそう思えた。
 看護婦は久恵に笑い返し、もう一度時雄を見て無言でうなずくと、「失礼します」と言って出て行った。

「千鶴はよくお義母さんに会いにくるのですか?」
 しばらく久恵の体調や容態についての話をしたあとで、時雄はそっと聞いてみた。『お義母さん』という昔の呼び名を使うことは時雄にとっては切なくもあったが、久恵の中では時雄はまだ変わらず千鶴の夫だった。
「それはしょっちゅう。時雄さんにも迷惑だからそんなに頻繁にじゃなくていいといつも言ってるんですけどね・・・あの子は優しいから・・・。それより私は孫の顔が早く見たいですねえ」
 久恵の言葉に時雄はなんと答えていいか分からなかった。記憶の混乱した久恵は、千鶴と話すときも、今でも娘の夫は時雄であると思いこんで話していたのだろうか。そんなとき、千鶴はなんと答えていたのだろう。母親に夫のこと、家庭のことを聞かれて、千鶴はどう答えていたのだろう。
 そんな場面を想像して、時雄の胸は痛んだ。

「そういえば、昨日もあの子は来ましたよ。この花を見舞いに持ってきてくれました」
 幸い、久恵はあっさり話を変えて、ベッドの横の台上を指差した。久恵は『花』と言ったが、実際はそれは縦長の画用紙に描かれた絵だった。花は金木犀、素朴なタッチと繊細な色使いは、明らかに記憶の中の千鶴のものだった。
「あの子はよくこんなふうな花の絵を持ってきてくれるんですよ。絵なら枯れないし、いつでも楽しめるからねえ。ほら、ここにたくさん」
 そう言って久恵は台の引き出しからクリアファイルを取り出した。受け取って開いてみると、そこには花、花、花。春夏秋冬を彩る花の数々が、季節ごとにきちんと整理されて並べられていた。
 暗鬱な日々を生きる中でも、千鶴は床に伏す母に贈るため、こうして何枚も何枚も美しい絵を描き続けていたのだ。眺めていると、自然に涙が出てきた。今までどんな辛い目にあっても涙は出なかったが、今度ばかりはたまらなかった。そもそものはじまり、時雄が千鶴という女性に惹かれるきっかけとなったのも、温かさに満ちた彼女の絵だった。そして今、眼前には千鶴の絵があふれている。千鶴があふれている。
 ぽろぽろと涙をこぼし、声もあげずに泣く時雄を、久恵は驚いたように見ていたが、やがてまた慈愛に満ちたあの笑みを浮かべた。
「どうも、時雄さんは疲れているようですね。何事も頑張りすぎはよくありませんよ、ほどほどが一番・・・。ほら、そこの椅子に座って、今日はしばらく休んでいかれたらどうですか」
 時雄は久恵に頭を下げ、彼女の言葉どおり病室の椅子に腰掛けた。涙をぬぐって、瞳を閉じる。
 これまでひどい日々の連続で心身ともにすり減らしてきたが、今日この瞬間だけでその甲斐はあったと思えた。それほど胸が熱くなっていた。
 そのまま、ゆっくり時雄は眠りに落ちた。久々の、何もかも包みこまれるような眠りへと。

 そして、目が覚めたとき、目の前には千鶴がいた。 
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七塚 11/4(土) 22:46:30 No.20061104224630 削除

 木崎が初めて知った頃の千鶴は、新品の真綿のような女だった。清潔でふわふわとしていて、軽く力をこめれば簡単に引き裂けるようなはかない雰囲気が木崎の心を捉え、また時には薄汚れた自分との絶望的な距離を感じさせた。

 だが、それは昔の話である。
  
 金のために風俗に身を堕とし、見知らぬ男と寝ていた千鶴。
 挙句の果てにはまた金のために、自分を犯した男の所有物となった千鶴。
 そんな千鶴はどうしようもなく惨めな女であるはずだった。
 実際、木崎のものになってからの千鶴は、まるで抜け殻のようで、かつての面影をまったく失っていたのだ。
 だからこそ、木崎はそんな千鶴の中に唯一残っていた時雄への無垢な愛情が憎かった。
 その愛情は永遠に自分へ向けられることがないという事実が憎かった。 

 それからの木崎は千鶴を汚し、貶めることに異常な情熱を燃やした。思いつく限りの淫虐を千鶴にくわえた。

『お前は商売女だ。金を取って男と寝ていたんだ。それを忘れるなよ』

 そんな言葉を木崎は執拗に繰り返し、千鶴の心を嬲った。
 どんなにあがこうが、苦しもうが、もう二度と幸福な昔には帰れない、穢れのない姿には戻れない―――。
 絶えずそう言い聞かせ、彼女のもっとも深い心の傷にナイフを刺しこむことで、木崎は千鶴に自覚させようとした。今の自分は木崎に金で買われた身であること、二度と再び時雄の前には姿を出せない自分であることを。
 木崎が言うまでもなく、千鶴自身そのことは絶えず思っていたはずだ。どんなに辛い仕打ちにあわされても、ほとんど唯々諾々だった千鶴がそのときは悲痛な表情を隠せなかった。そんなとき、木崎は鋭い痛みとともに、自虐的な快感を覚えていた。
 千鶴を傷つけることは、木崎にとっては自傷行為にも近かった。そうと気づいていながら、やめることは出来ず、木崎はどんどんとその行為にのめりこんでいった。

「本当に救いようのない歳月だった・・・暗闇で滅茶苦茶に突っ走っているような・・・その結果がこれだ。千鶴は出て行った」
 木崎は苦渋の吐息を漏らした。
「最初は千鶴への復讐のつもりだった。俺がどんなに愛しても、決して俺を見ようとはしないあの女への復讐。だが、今思えばそうじゃなかったのかもな。諦めのわるい俺は、そうやって千鶴を汚すことで、いつかはあいつを本当に手に入れられると考えていたのかもしれない。間抜けな話さ。結局、千鶴はお前と再会してから、あっという間もなく俺から去っていった」
 木崎はそう言って、乾いた笑い声をたてた。
 時雄は黙ってそんな木崎を見ていた。
 やがて、言った。
「お前の話は―――それで終わりか?」
「・・・え?」
 聞き返した木崎の鼻面を、時雄は渾身の力で殴りつけた。
 腰掛けたソファごと、木崎は床に崩れ落ちた。
 時雄は立ち上がった。這いつくばった木崎を睨みつけた。
「ふざけるなよ・・・!」
 そう吐き捨てた。
「お前がどんな思いで、どんなことを考えて生きてきたのかなんて、俺にとってはどうでもいい。お前は俺と千鶴の人生を身勝手に捻じ曲げたんだ。千鶴の心を得たかっただと? 愛されたかっただと? いいかげんにしろよ、何様のつもりだ。千鶴はモノじゃない、生きて悩んで苦しんでいる人間なんだ。千鶴の心は千鶴のものだ、他の誰のものでもない」
 分かっている―――。
 誰かを愛しすぎた人間は木崎のようになる。愛する者を自分だけのものにしたくなる。独占欲に狂っては、檻の中に閉じ込めて、自由を奪って、自分に都合のいい姿だけを見せてほしいと願う。時雄にだってそういう部分はある。とりわけ千鶴に対しては――。
 だが、それは思春期の少年が夢見るような幻想だ。決して形にしてはならない熱病のような想いだ。
「お前が身勝手な理屈をどれだけこねようが、お前に誰かを傷つける権利はない。苦しむなら自分だけで苦しめよ。千鶴を巻き添えにするなよ。そんな、そんなくだらない理由でお前は千鶴の七年を」
 俺の七年を奪ったのか―――。
 時雄は血を吐くような想いでそう叫んだ。
 木崎はがっくりとうなだれたまま、何も言い返さなかった。

 やがて―――
 少しだけ落ち着きを取り戻した時雄は、低い声で聞いた。
「ひとつ聞かせろ。お前は千鶴と籍を入れているのか?」
「・・・いや。なぜだ?」
「千鶴がそう言った」
 時雄の言葉に、木崎ははっとした表情になった。その顔がゆっくりと歪み、木崎は馬鹿笑いを始めた。実に苦しげな笑みだった。
「ははは、こいつはおかしい。最初、俺はあいつを自分の力で幸せに出来たら、そのときにきちんと籍を入れようと思っていたんだ。それが―――俺の夢だった」
 木崎の目尻から涙が落ちた。
「まったく、どこまで俺を虚仮にすれば気がすむんだ、あの女は」
「お前に千鶴を責める資格はない」
 時雄は抑えた声でそれだけ口にした。

「なあ・・・」
 しばしの沈黙の後で、木崎はぼんやりと言った。
「千鶴は・・・お前のところへ戻るのか」
 時雄は宙を見つめた。自分の心と、今もどこにいるのか知れない千鶴の幻影を見つめた。
 そして、答えた。
「分からない。それは千鶴が決めることだ」  
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七塚 11/2(木) 22:04:38 No.20061102220438 削除

 千鶴と暮らし始めて数年の間は、木崎は幸せだった。
 もちろん、傍らの千鶴は、かつて木崎が死ぬほど恋焦がれた女とは違っていた。昔の千鶴ははにかむようにしながらもよく笑う女だったが、その頃はむしろ生気のない、人形めいた女と化していた。苛酷な生活の果てに、感情をどこかに置き去りにしてしまったかのようだった。かつて確かに抱いていた木崎への激しい憎しみさえも。
 だが、それは木崎にとっては都合がよかった。ようやく手中に収めた千鶴は自分に対してひたすら従順だったが、それは愛情ゆえではない。木崎が肩代わりして払っている母親の治療費ゆえだ。そのくらいのことも分からないほど、木崎は愚かではない。しかしそうであっても、とにかく憎まれることさえなければ、いつかは本当に千鶴の愛を手に入れられる日が来るかもしれない。木崎はそう考えた。
 だから、木崎は千鶴に尽くした。徹底的に。金で千鶴を縛っているだけだ、と考えるのは自分でも苦痛だったが、その気持ちを表す手段も木崎にとっては金しかなかった。
 木崎は千鶴に金をかけた。美しい服を買い与え、常に美しく着飾らせた。そうすることで、一時の悲惨な生活で生彩を欠いていた千鶴の美貌が蘇ってくるのが、木崎には嬉しかった。相変わらず生気を欠いた千鶴の表情が、かえって異様な美を形作っていた。
 その頃の千鶴はまさに人形だったといっていい。木崎の欲望を満足させ、妄想を昂進させる着せ替え人形のような存在だった。
 だが、それから約一年後のある日。木崎の蜜月は急に終わりを告げた。

 その当時、自分のいないときに、千鶴がどこかによく出かけているようだと木崎は気づいていた。それまではそんなことはなかったので、木崎は不安になって千鶴を問い詰めた。いつも無表情だった千鶴の顔に、さっと動揺が走るのを木崎は見た。

 
「俺は千鶴を問い詰めた。あいつからようやく話を聞いて、仰天したぜ。千鶴はどこへ行っていたと思う? ここだよ、お前が住んでいるこのマンションの前だ。もう一箇所ある。昔、お前と暮らしていた家だ。その家はともかく、千鶴がどうやってお前がここに住んでいることを知ったのは、俺には分からない。だが、あいつはよくここに来ていた。お前のいない時間を見計らってな。あの向かいの喫茶店で、ぼんやりこのマンションを眺めていたんだ」
 木崎は自嘲気味に鼻を鳴らしながら、そう言った。
 時雄は驚いていた。千鶴が昔、このマンションの前によく来ていた? 時雄が暮らしていると知りながら、わざわざ時雄のいない時間にやってきて、千鶴はどんな想いでこの建物を眺めていたのだろう。それから何年も経った一昨夜、初めてこの時雄の部屋に足を踏み入れたとき、千鶴はどんな想いでいたのだろう。
「俺も千鶴の話が本当かどうか、確かめるため、ここに来たことがある。だから、俺は今日ここへ来れたのさ。あのとき、一度来ていたからな」


 そうしてマンションの表札にたしかに時雄の名があることを確認した木崎は、深い絶望に陥った。
 千鶴と暮らすことで手に入れたと思っていた、理想的な生活が音を立てて崩れていくようだった。
 ようやくモノにして、今度こそ掌中の珠を慈しむように愛していこうと誓った女。
 その女の心の中には、まだあの憎い男がいた!
 なんということだろう。
 会える望みもなく、会っても憎まれるだけだと知りながら、かつて愛した男の住んでいる部屋をぼんやりと眺めている千鶴。その姿に、かつて血を燃えたぎらせるような想いで千鶴と時雄のいるアパートを見つめていた自分が、木崎の中でオーバーラップした。 
 ある意味、木崎は誰よりもそのときの千鶴の心情を理解出来る男だった。だからこそ、木崎は怒りと憎しみで我を忘れた。
 木崎が千鶴を決して忘れられなかったように、千鶴もまたあの男のことを忘れられないのだ。そう思うと、いつかは千鶴の愛を受けられると夢見ていた自分が、たまらなく惨めになった。なんという道化者だったのだ、自分は!
 千鶴の心はあの男を去らない。木崎は決して千鶴から愛されることはない。
 それならばいっそ、傷つけてやる。傷つけて、傷つけて、二度と元には戻れないくらい、徹底的に堕としてやる。
 憎悪の虜となった木崎の心は、今度はそんな妄執に取り憑かれた。
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七塚 11/1(水) 20:27:38 No.20061101202738 削除

 そして―――あの運命の日がやってきた。
 木崎は千鶴を犯した。
 あまつさえ、その事実を脅迫の種に使い、千鶴に関係を迫った。

 あの時期の千鶴の怯えた瞳は忘れられない。千鶴は世の中に存在するぎらついた悪意を知らずに育ってきたような女だった。かつては母親が、やがては時雄が、千鶴の強力な庇護者となり、世間の波風から徹底的に守ってきたからだ。
 そんなふうに育ってきた女がいきなり強烈な暴力に晒され、肉欲の捌け口となった。
 砂漠にいきなり放り出されたハツカネズミのように、千鶴はただ怯えていた。
 まるで鬼か化け物でも見るように自分を見つめる千鶴に、木崎自身も困惑を覚えていた。もともとはこんなふうにしたかったわけではない。掌中の珠を守るように千鶴を愛したかったのは木崎とて同じことだった。
 困惑はやがて激しい憎しみへ変わった。子供は欲しいものが手に入らないと、逆にそのものを憎むようになる。いくら望んでも手に入らないから憎いのだ。そして、木崎は子供だった。
 夫に真実を告げられない千鶴の弱さを盾にとり、木崎は千鶴の肢体を弄んだ。
 本当に欲しいのは千鶴の心。
 だが、それは永遠に叶うことはない望みである。
 もう戻れはしない。戻ることは二度とこの女を抱けなくなることである。
 そうする気にはなれなかった。何があっても。
 矛盾する愛憎と破滅への恐怖が、いよいよ木崎を狂気に駆り立てた。

 しかし、強制的に結ばせた関係はすぐに破綻した。時雄に不倫の現場を見られたのだ。
 木崎は怯えていた。この期に及んでは、さすがに千鶴も不倫の発端がレイプであったことを夫に告白するだろう。そうなれば―――いよいよ木崎は何もかも失うことになる。
 だが、千鶴は時雄に何も言わなかった。ただ、離婚の意思を示しただけだった。
 同時に千鶴と木崎との関係も終わった。
『あなたを恨んでいます。一生、恨みます』
 そう告げられた。
 それまで怯え一辺倒だった千鶴の目に、木崎ははじめて燃えるような怒りを見た。いくつになっても少女めいた雰囲気を持ち、無垢な小動物のようだった千鶴が、そのときはじめて生々しい憎悪の感情を爆発させたのだ。
 木崎は衝撃とともに、そんな千鶴を見つめた。

 やがて、本当に千鶴は時雄と離婚した。
 してやったり、とは思わなかった。どうせ時雄と別れても、千鶴が木崎のもとに戻ることはない。それどころか、一生、自分は憎悪の対象のままだ。
 なぜか、そのことが木崎の心を深く沈ませた。狂おしいほどに。

 ところが、運命のいたずらが起こる。千鶴のたったひとりの家族である母親が重い病に倒れ、千鶴はその治療費を捻出するためにソープに身を沈めたのだ。
 偶然、木崎はそのことを知った。ひどくショックだった。転がり落ちるような千鶴の不幸がショックだったのだ。言うまでもなく、そのひきがねを引いたのは木崎自身であるが、同時に木崎は千鶴のことを深く愛してもいた。狂気じみた愛憎の末に、滅茶苦茶に傷つけておきながら、いまだに身勝手な愛情を抱いていた。

 木崎は千鶴の勤めるソープに通った。
 千鶴はすでに昔の千鶴ではなかった。畳み掛けるような不幸の果てに、千鶴がかつて持っていた無垢な色は消え去り、かわりにどこか凄惨な空気を身にまとっていた。
 客としてやってきた木崎に、千鶴は激しい拒否反応を示した。当たり前だ。その瞳に映る燃えるような憎悪は消える気配すらなかった。木崎は木崎でここまで千鶴を堕としてしまったことに対する後悔と懺悔の念を抱いていた。少なくともそのときまでは。
 拒まれても、拒まれても、木崎はその店に通った。
 会うたびに口も聞かず、何もせずだったが、千鶴が次第にぼろぼろになっていくのは目に見えて分かった。母親のためとはいえ、それまで生きてきた世界とあまりにもかけ離れたところに放り込まれたのだ。かつての千鶴を知っているものからすれば、よく気がおかしくならなかったものだと思う。

 ゆっくりと崩壊していくような日々を過ごす中で、千鶴の木崎への対応も変わっていった。商売女らしい媚びを見せるようになったわけでもなく、相変わらず口もきかなかったが、いつ来ても指一本触れず、ひたすら懺悔し続ける木崎に、千鶴はどこか気を許すようになっていくようだった。

 孤独な人間ほど隙のあるものはいない。そのときの千鶴は本当に独りだった。木崎にすら心を許さずにはいられないほどに。
 千鶴の心が徐々に自分を受け入れつつあることに気づいた木崎は、予想外の展開に内心で狂喜した。これでやっと、対等の関係で千鶴と向き合うことが出来るようになったと思ったのだ。それは大学時代からの木崎の宿願だった。

 やがて、木崎はかねてから考えていた提案を口にする。母親の治療費を自分が肩代わりすること。そのかわり―――とは言わなかったが、木崎の言下の意図には千鶴だって気づいていたはずだ。だから、木崎はむしろおずおずとその提案を言った。
 その日、千鶴は何も言わなかった。だが、何を馬鹿なことを、と言ってその提案を撥ねつけることもしなかった。
 木崎の心は躍った。
 次にその店に行ったとき、ついに木崎は望みのものを手にする。千鶴が自分から身を任せてきたのだ。それが返事だった。

 ようやく、この女を本当に手に入れた!

 木崎はそう確信した。
最高の気分だった。
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七塚 11/1(水) 15:47:46 No.20061101154746 削除

 不意の木崎の出現に、時雄は驚くよりもショックを受けた。あれほど苦しい思いをして探していた人間が、自分からのこのこ現れたのだ。
 一昨夜、時雄に殴りつけられた木崎は、痛々しい顔の傷以外にも相当のダメージを受けているらしく、よろめくように車から降りた。その姿を見つめる時雄の心はむしろ呆然としている。
 時雄が何か言おうと口を開く前に、木崎は言った。
「千鶴はここにいるのか?」
 どういう―――ことだ?
 不可解な顔をした時雄の反応に、木崎はひとりで納得したようだった。
「そうか、いないのか」
「・・・千鶴はお前のところに戻っていないのか?」
 ゆっくりと時雄は木崎に近づいていく。木崎の目に警戒心と怯えのようなものが見えた。その木崎の肩を時雄は掴む。
「どうなんだ!」
「いない、俺のところにはいない」
「じゃあ、どこにいるんだ」
「知らない。俺はてっきりお前のところだと思っていた。だから来たんだ」
 時雄は木崎の肩を掴んだまま、しばらくその顔を睨みつけた。
 木崎も精一杯の虚勢を張って、時雄の顔を睨み返す。
 そのまましばらく対峙していた。
「とりあえず、俺の部屋に来い。そこで話を聞かせろ」
 やがて、時雄は言った。

「本当に・・・いないようだな」
 木崎の呟きを無視して、時雄は煙草に火を点ける。
 煙を吐き出しつつ、問う。
「いつから千鶴はいなくなった?」
「昨日からだ。・・・お前にやられたこの怪我のせいで、俺はその前の夜から家でずっと寝ていた。いつまで待っても千鶴も戻ってこなかったんでな。千鶴はここにいたんだろ?」
「・・・・・・」
「それは本人から聞いた」
 木崎は唇の端で薄く笑った。
「あいつを抱いたんだろ?」
「・・・・千鶴は翌朝早く、知らないうちに出て行った。やはり、その後一度お前のもとへ帰ったんだな」
 木崎の言葉をまたも無視し、時雄は話を続けた。
「そうだ。朝帰りしておきながら、ご丁寧に俺の怪我の手当てをして、また出て行きやがった。昨夜も戻らない。それで俺はまたお前のところへ行ったのかと思ったんだ」
「出て行くときに引き止めなかったのか」
「ふん。何があったのか知らないが、俺の話なんて聞きやしない。ただただ泣いてわめいて、『このままではいられない』、『お世話になったお金は返す』の一点張りだ。それに引き止めようにも、俺のほうは怪我でろくに動けやしなかったからな」
「・・・・・・」
「いったい俺が今までいくらあいつに金を遣ったか・・・それを元の亭主に会うやいなや、あっさり俺を捨てていきやがった。まったく、たいした女だよ」
「・・・お互いさまだろ。いったい、この七年でお前は千鶴に何をした? レイプしたあげくに、金で縛って、言いように玩具にしていたんだろう」
 凄いほど怒気を孕んだ声で、時雄は言った。
「お前が千鶴の人生を壊したんだ。俺の人生もな」
 木崎は一瞬怯んだようだったが、すぐに持ち前の皮肉な笑みを浮かべた。
「たしかにそうかもな・・・だが、俺だって別に幸せだったわけじゃない。ずっと、長い間」
「知るか」
 時雄は短く吐き捨てた。
「俺は大学時代ずっと、あいつのことが好きだった。それはお前も知っているだろう?」
 時雄の言葉を今度は木崎が無視して、話を続けた。
「だが、お前がいた。お前もまた千鶴のことが好きで、なんとかモノにしようとしていることは、すぐ分かったぜ。内心焦ったよ。お前には、お前にだけは勝てる気がしなかったからな」
 いつも尊大な口調でしか、時雄に向かい合わなかった木崎が、なぜかそのときは様子が違っていた。そんな木崎に時雄は戸惑いを覚えた。
「そして筋書き通りに、千鶴はお前のものになった。あのときは、口惜しくてたまらなかった。逆恨みとは分かっていても、千鶴も、千鶴を奪っていったお前のことも、憎くてしょうがなかった」

 木崎の千鶴への思い入れも、時雄と同じく凄まじいものがあった。
 同じサークルにいる以上、いやでも時雄と千鶴が、恋人となった千鶴の姿が目に入る。それが苦痛で仕方ない。ならばさっさとサークルをやめればいいのだが、木崎はそれもしなかった。あくまで千鶴に執着していた。
 だが、そのときはまだ千鶴を時雄から奪い取ってやろうとは考えていなかったという。
「最初に千鶴がお前のものになったと聞いたとき、ああ、やっぱりなと思った。俺はもともとお前を恐れていたんだ。俺には、お前が別の次元にいる人間のように思えた。絵の才能も男としても、とてもかなわないと思っていた」
 だが、屈折した木崎は内に秘めた思いを口に出すことはなく、むしろ傲慢な調子で時雄に接した。時雄が年下だったことも、木崎のプライドを刺激したようだ。
 とはいえ、時雄から千鶴を奪うことは出来そうにない。二人は誰が見ても似合いのカップルだった。
 だからといって、千鶴を忘れられもしない。
 あるときなどは千鶴のあとをつけて、時雄のアパートの部屋に入るのを見とどけ、それから朝までそのアパートを外から眺めていた。
「暗すぎて笑えるだろ? あの頃はとても正気じゃなかったな」
 自嘲の笑みを浮かべながら、木崎は回想した。

 やがて、木崎にとっては暗い思い出となった大学時代が終わった。
 一時は美術関係の職につくことを志した木崎はしかし、平凡なサラリーマンとなり、平凡な毎日を送っていた。恋に敗れ、夢に敗れた木崎は新しい何かをみつけることも出来ず、ただ鬱々としていた。
 そんなときである。大学の美術サークルの同窓会の話が持ち上がった。
 その知らせを聞いたときはもちろん断ろうと思っていた。しかし、そのとき電話してきたかつての仲間の話を聞いて、木崎は顔色を変えた。
 大学時代の苦い思い出の象徴ともいえるあの男。今では千鶴と結婚したあの横村時雄が、かつて木崎も志望していたデザイン系の会社に就職しているという。
 時雄は木崎の手に出来なかった夢も、恋もすべて手に入れたのだ。
 電話を切った後も、その日はショックでずっと寝つかれなかった。
 敗北感、喪失感、そして嫉妬の念が木崎の中でどろどろと渦巻き、身を焼いた。
 千鶴の顔が浮かぶ。大学時代、時雄も千鶴もシャイな性格なので、人の目のあるところでは決してべたべたしなかったが、ふとした瞬間に千鶴が時雄を見つめていることに気づくことがあった。その顔に浮かんでいる幸福さと愛しさの表情は、まさに恋する女のそれだった。
 いったい何度、苦い想いでそんな千鶴の表情を木崎は見つめたことだろう。
 友人からの電話で、絵に描いたような二人の近況を聞いたとき、木崎の脳裏に浮かんだのは、まさにそのときの千鶴の表情だった。
 あの女は今もまだ時雄の傍らで、そんな幸せな表情を浮かべているのだろう。
 その様子を思い浮かべると、木崎は気がおかしくなりそうだった。いや、すでにおかしくなっていたのかもしれない。そのときにはもう、木崎の頭にうっすらとあの同窓会の夜の計画が具体的な形を取りつつあったのだから。
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七塚 10/30(月) 22:05:16 No.20061030220516 削除

 過去を振り返ることが嫌いだった。
 後ろ向きに生きていくことは何よりも耐えがたかった。
 かつて、時雄は確かにそんなタイプの人間だった。
 辛いときも、哀しいときも、そのままの状態で沈み込んでしまえば、救いようのないところまで堕ちていってしまいそうで怖かった。
 だから、もがいた。ひどい気分のときはもがいて、あがいて、どうにかして立ち直る。それがある時期までの時雄の生き方だった。
 現状を受け入れてしまえば、自分の弱さを認めることになりそうで、厭だった。どんなときも、負けたくはなかった。
 いつからだろう。そんな時雄の生き方に変化が訪れたのは。
 不意に訪れる哀しみに流され、沈み込むようになっていったのは。
 ―――千鶴と別れてからだ。
 青天の霹靂としか言いようのないあの離婚劇は、時雄から最愛の女だけでなく、男としての自信のようなものを確かに奪い去った。
 ときには傲慢とさえとられた時雄の自分自身を信じぬく気概は、あの事件をきっかけに失われ、かわりに己への不信感のようなものが芽生えた。
 本当の自分はこんなにも弱く脆い人間だったのだ、と。
 そもそも、時雄がいつもいつも自分を奮い立たせて生きてこれたのは、千鶴がいたからなのかもしれない。自分を貫きとおした結果、どんな酷い目に遭って、どんなに周囲から孤立したとしても、千鶴だけは傍にいてくれる。ずっと見守っていてくれる。かつて、時雄はたしかにそう信じていた。
 だから、千鶴が去っていってからの時雄はまったく別の人間になってしまった気がした。
 孤独―――。
 そして、時雄は過去ばかりを見つめる人間になった。どうしようもない後悔とやりきれなさに始終支配されている人間になった。

 そして今も―――
 時雄は終わってしまった過去に苛まれている。
 伊藤から聞かされた、自分と別れてからの千鶴の人生の断片。
 救いようのないその話は、時雄の心を打ち壊すだけの圧倒的な力を持っていた。
 理不尽に訪れたあの離婚のときも、それ以降の長い年月も、そしてつい最近再会し、あの恐ろしい告白を聞いた後でさえも、時雄は心のどこかで千鶴を信じる気持ちを捨てられなかった。憎しみや怒りや自分自身への不信感はあったとしても、だ。
 なぜそこまでの思い入れがあるのかと考えても分からない。心から愛していたからと言えばそれまでだ。あるいは、短い期間ではあったが、千鶴と暮らした幸せな年月の記憶を汚したくないという想いがあったのかもしれない。あの年月すらも幻だったとしたら、時雄の人生は本当に何もなくなってしまう。
 それが怖かった。
 伊藤は他人だ。当たり前の人生を歩んでいたら、時雄とも千鶴とも一生関わることがなかったであろう男。
 その男の目から見た、つい最近までの千鶴の姿は、時雄には信じがたいものだった。かつての千鶴からは想像も出来ない姿。
 だが、それは実際にあったことなのだ。
 一昨夜の告白で、千鶴はもっともひどい状態だったとき、木崎に助けられたといった。それをきっかけに、身も心も木崎に売り渡してしまった、と―――。
 それはつまり、木崎の望むような女になったということだったのか。伊藤の話に出てきた破廉恥な振る舞いさえ厭わないほどの女に。
 
(嫌よ嫌よも好きのうちってね。そういうプレイなんだよ。男が卑猥なことを女に強制して、女はいやがる素振りを見せながら従うことで、下半身を濡らす。本当にいやだったら、まともな神経をしていたら、そんな馬鹿げたことをやる女はいないよ)

 不意に伊藤の言葉が蘇る。目の前が真っ赤になって、時雄は慌てて道の端に車を停める。
 息をついて、呼吸を落ち着かせた。
 そんなことがあるはずはない。
 たとえ、言葉どおり、千鶴が木崎の奴隷になっていたとしても、そんな境遇に彼女が暗い楽しみをおぼえていたなんてことは、あるはずはない。
 心に湧いた疑念を必死に打ち消しながら、一方で時雄は自嘲している。
 いまだ千鶴を信じる心を捨て切れていない自分を哂っている。
 

 時雄は伊藤の話を最後まで聞くことは出来なかった。すでに神経はぎりぎりまで痛めつけられていて、気がおかしくなりそうだった。
 明らかに様子のおかしい時雄に伊藤は恐ろしげな顔をしていたが、とにかく木崎の住所だけは教えてくれた。
「それで、写真は・・・」
 それだけ聞いてさっさと靴を履きかけた時雄に、伊藤は玄関口でおそるおそる声をかけた。
「―――――!」
 ものも言わず、時雄は手にしていた写真をびりびりに破き捨て、伊藤の家から飛び出した。つい一時間前のことだ。
 そのまま時雄は自宅に向かった。木崎の家に直行はしなかった。すでに食わず寝ずの生活が長く続いていて、身体も心もぼろぼろである。このままの状態で木崎と対峙することは出来そうにもなかったし、その前に自分が何のために何を望んで動いているのか、またも時雄には見えなくなっていた。
 あるいは―――時雄は怖かったのかもしれない。木崎の家に行き、そこにいるかもしれない千鶴と直接向き合うことが・・・。

 自宅マンションの駐車場に車を停め、時雄は自室に向かった。
 とりあえずはもう何も考えないで、ただ身体を休めたかった。
 だが―――
 マンションの前に停まった車の中から、こちらをじっと窺っている男が目に入った。
 顔中アザだらけで、ところどころガーゼや絆創膏を貼っている。その下から時雄を見つめる、あの暗い目つき。
「木崎・・・・」
 時雄は思わず呟いていた。
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七塚 10/29(日) 18:00:45 No.20061029180045 削除

「・・・あなたは」
 時雄はようやくのことで声を絞り出した。
「どうしてそのとき何もしなかったんですか? その女性―――紙屋さんは決して望んでやっている様子ではなかったんでしょう? 木崎に強制されて無理やりそんな・・・ことをやらされていたんでしょう? どうして」
 助けてやれなかったのか―――。
 語っているうちに、怒りと悲しみが降るように湧いてきて、言葉が詰まる。
 胸が詰まる。
 息が詰まる。 
「あんたもいい年なんだから分かるでしょ? 嫌よ嫌よも好きのうちってね。そういうプレイなんだよ。男が卑猥なことを女に強制して、女はいやがる素振りを見せながら従うことで、下半身を濡らす。本当にいやだったら、まともな神経をしていたら、そんな馬鹿げたことをやる女はいないよ。私が口を出す問題じゃない」
 わけ知り顔で伊藤は言う。
 時雄の脳裏に一昨日の木崎の顔が蘇る。
 木崎の言葉が蘇る。

(・・・女のほうも望んでやっているんですよ・・・)
(・・・そういうのが好きな女なんです・・・)

「まあ、そんなことがあってからだね、私と木崎さんとその・・紙屋さん・・・奥さんか、三人の付き合いが始まったのは。それからはたまに連絡を取り合って、三人で遊ぶことがあった。まあ、遊ぶといってもご想像通り、世間一般のおとなしいものじゃない。今から思えば木崎さんはたしかにまともじゃないね。女房を私のようなよく知りもしない男に抱かせて、自分はそれを見て悦んでるんだから。ときには写真なんか撮ったりしながら。とはいえ、奥さんはあれだけの美人だし、身体もよかった。私も夢中になっちゃってね」

(あいつは心の底から俺に惚れているのさ。だから俺の望むことなら、何でもしてくれる。ただ、それだけだ。理屈も何も関係ない)

「私もこの年になるまで色んな女を抱いたが、あれほどの極上品は他にはいなかったね。木崎さんに色々仕込まれていたっていうのもあるだろうが、まるで風俗嬢のように男を悦ばせるテクニックを知ってるんだ。普通の女なら決してやらないようなことでも、言えばなんでもやってくれた。あれは真性のM女だね。木崎さんもいい女をものにしたもんだ。まったく、男の玩具になるために生まれてきたような女だったよ」

(そのときから私は決して彼の言うことに逆らえない女になってしまったんです―――)

「普通なら虐待といえるようなことでも、マゾの女には最高の刺激なんだな。写真を撮られながら、夫以外の男に奉仕させられる奥さんのほうもまんざらでもない様子だったよ。ときには私と木崎さんの二人がかりで責められてヒイヒイ泣いていた。あの奥さん、顔もいいけど声もいいんだよな。汗びっしょりになりながらハメられてるときなんか、こっちもゾクゾクするほどいい声で啼くんだよ」

(千鶴もまんざらでもない様子だぜ。お前と別れてから、初めて本当の女の悦びってやつを知ったんだよ、あいつは。もちろん教えたのは俺だがな)
(女はいいな、どんなことも悦びに変えてしまう)

「まあ、そんなこんなで私も大いに楽しませてもらったし、世話にもなったからね。奥さんにあのバーを紹介したんだよ。オーナーと私は昔からの知り合いだからね。でも、あの店でもときどき客をとってるらしいね。前に会ったとき、木崎さんが言っていたよ。ほんと、イカれてるよなあ」

(あなたに軽蔑されるのが怖かったんです―――)

「・・・黙れ」
 突然、低い声でそう言った時雄に、伊藤はきょとんとした顔になった。その顔を時雄は睨みつけた。
 心が、身体が、バラバラになりそうだ。
「もういい・・・そんな話はもう聞きたくない。やめてくれ」
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七塚 10/26(木) 19:39:57 No.20061026193957 削除

 伊藤と向かい合って、時雄はソファに腰を下ろした。
 眼前の伊藤は最初の印象どおり、適当に遊んで適当に老けてきた人生が透けて見えるような、たがのゆるんだ風貌をしていた。肩幅はがっちりとしているが、突き出した太鼓腹が見苦しい。
 こんな男が千鶴をいいように弄んでいたかと思うと、腹の底がかっと熱くなるようだが、とりあえずこの場では忘れるしかない。
 木崎と千鶴の所在を知ることが何よりも肝心だ。
「まずお聞きしたいのですが、あなたと木崎夫妻はそもそもどういう知り合いなのですか?」
 伊藤は上目遣いで探るように時雄を見た。
「どういうって・・・さっきも言ったけど、そんな深い付き合いでもない。ただ、行きつけの飲み屋で知り合って、ときどき連絡をとって遊ぶようになったってくらいかな。だいたいあんたは木崎夫妻というけど、私はあのひとが結婚していたのも知らなかったんだ」
 伊藤の言葉にはひっかかるものがあった。
「あなたは木崎さんとこの写真の女性が結婚されていることをご存じなかったのですか?」
 この写真の女性、と言ったとき、伊藤の顔がわずかに動揺した。
「私は聞いていないよ。最初に会ったとき――これは二年くらい前のことだが――そのひとは私に「紙屋千鶴です」と名乗っただけで、それ以上のことは何も言わなかった。木崎さんも結婚してるなんて言わなかった。もちろん最初からふたりがただならぬ関係だということは分かっていたが、結婚していたなんて初耳だ」
 これは―――どういうことなのだろうか。
 紙屋は千鶴の旧姓だ。時雄と別れて間もない頃なら、千鶴が旧姓を名乗っているのは当たり前だが、伊藤の話はつい二年前の話なのである。普通に考えれば、そのときはもう木崎と籍を入れていておかしくない。すでに籍を入れていたなら、わざわざ旧姓を名乗る理由が分からない。
 もちろん、その後に籍を入れたという可能性もあるが、そうだとしても、友人の伊藤でさえ知らないとはどういうことか。
 よくよく考えてみれば、千鶴が木崎と再婚しているという話は、千鶴の口から聞いただけである。木崎本人からもそんな話は聞いていない。もっとも、木崎とはあまり話を出来る状況ではなかったが。
 ふと心に生まれた動揺で時雄が黙っていると、伊藤が、
「あのふたりがまともじゃないということは分かっていたけど、まさか夫婦だったとはね。いよいよイカれたカップルだ」
 と呟いた。
「どういうことですか?」
「いや・・・あんな写真を見られているんじゃ説得力はないだろうが、私から見てもあのふたりはおかしかったよ。変態的っていうのかな。・・・ところであの写真、後で返して貰えるんだろうね。あんなのが出回ってると思ったら、おちおち表にも出られない」
 時雄はにこりともせず、「続きを聞かせてください」とだけ言った。伊藤は少しむっとしたようだったが、諦めたようにまた口を開いた。
「最初に彼らと会ったのはある飲み屋でね。私はそこの常連だったから、ちょくちょく行っていた。で、あるとき、ふと気づいたら、私と同じように、よく来る男女二人連れの女のほうがかなりの美人だということに気づいたんだな。男のほうは、木崎さんには悪いが、たいして風采のあがらない、貧相な感じだったから、面白い組み合わせだなと思っていた。
やがてその店に行って、そのカップルを見かけるたび、意識してそのほうを見るようになった。そうして見ていると、やっぱりおかしい。女のほうはおとなしめな顔で、化粧だってそんなにしていないのに、やたら派手というか、露出の多い服を着ている。そう若くもないのにね。で、店で並んで飲みながら、男のほうはやたらと女にちょっかいをかける。キスをしたり、尻をさすったり、ひどいときなんか胸元に手を入れたりしているんだな。女のほうはいかにも恥ずかしそうに形だけ抗っているようだが、結局は抵抗らしい抵抗もしないでなすがままになっている」
 そのときのことを思い出して語る伊藤の顔には、はっきりと好色な笑みが浮かんでいた。時雄は胸糞がわるくなった。
「そんな話はいい。とにかく、あなたはその店で木崎と知り合ったんですね」
「そう。木崎さんの狼藉があんまりひどいんで、店でもそろそろ話題になっていたころだったな。ちょうど小便に立ったとき、木崎さんがいたんだ。『あなたたちがあんまり派手にやってるもんで、店の者も客もびっくりしてますよ』って私から話しかけたんだ。私の言葉に木崎さんはただへらへら笑っていた。そのときから、店で会うと挨拶くらいするようになったんだ」
「・・・いつから本格的に親しくなったんですか?」
 時雄が問うと、伊藤はまた下卑た笑いを浮かべた。
「それが今から思い返せばとんだ笑い話でね。あれは冬の頃だったが、ふたりがまた連れ立ってやって来たんだ。たまたま店が混んでいて、私はひとりで飲んでたんだが、木崎さんが『こちらのテーブルにご一緒してよろしいですか』と聞いてきたから、いいよと答えた。そのとき、改めて真近から女を見たんだが、本当にいい女でね。でも、その日は黒いレザーコート一枚を羽織って、店に入っても脱ごうとしないんだ。私ともろくろく目を合わさず終始うつむいているし、寒いのに額にはうっすらと汗が浮かんでいた。どう見ても普通な様子じゃないんだね。
私は気になって、『どこか具合がわるいのですか?』と聞いた。それを聞くと、木崎さんはなぜか笑った。おかしくてたまらないという様子だった。女のほうはますます縮こまっている。私は何がなんだか分からないし、どうも馬鹿にされたふうだったから、不機嫌な顔をした。そしたら木崎さんが女の耳に何か囁いたんだ。女の様子は普通じゃなかったから、私はこの女は耳が聞こえにくいのだろうかなどと思った」
「・・・・・・」
「木崎さんに何か言われて、女のほうは小さくかぶりを振った。瞳が潤んでいて、それがなんとも蟲惑的に見えた。あの女はいつもそんな瞳をしていたね。困っているような、戸惑ったような、潤んだ瞳。それがまたなんともそそるんだよ」
 話に興がのってきたらしく、伊藤は身振り手振りも交えながらいやらしい口調で語る。
 伊藤の口に出した『あの女』という呼称自体、この男が千鶴に対して抱いていた感情を如実にあらわしていた。殴りつけたくなるほどの怒りを覚えながらも、時雄の脳裏には一昨日に見た千鶴の瞳がよぎっている。
 あのときも、千鶴の瞳は潤んでいた―――。
 時雄にとっては、その瞳の色は蟲惑というよりも、哀切の念を激しく呼び起こすものだったが。
 時雄の感傷など知るはずもなく、伊藤は滔々と話を続ける。
「木崎さんに再三何か言われて、女はしばらくそうして困っていたが、やがて私のほうを見た。背筋がぞっとするような艶っぽい目だった。それから女は顔を伏せて、静かにコートの前を開いた」
 思わせぶりな口調で言葉を切って、伊藤は時雄を見た。時雄は思わずその顔に罵声を浴びせてやりたくなったが、そうする前に伊藤が口に出した言葉のほうに衝撃を受けた。
「驚いたねえ。コートの下に女は何も着てなかった。真っ裸さ。ちょっと開いただけで、女はすぐに身体を隠してしまったが、おっぱいもあそこの毛もはっきり見えたよ」
 世の中には本当に変態っているものなんだな。
 そう言って、伊藤はまた下卑た笑みを浮かべた。
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七塚 10/23(月) 22:11:09 No.20061023221109 削除

 バーテンから聞いた男の名は伊藤牧人。この男が千鶴をあの店のオーナーに紹介したのだという。
 連夜の睡眠不足からくる生活の乱れがたたって、ふらふらの身体を引きずるように、時雄は翌日、伊藤の家を訪ねた。
 朝、出かけるとき、床に放り出したままの、あの写真が目に入った。見るも恐ろしいそれを時雄がポケットに突っ込んで出かけたのは、ある予感が頭をかすめたからである。
 この写真に千鶴と一緒に映っている男は、もしやその伊藤という男ではないか。千鶴に対する男の馴れ馴れしげな様子、また男がファインダー越しにカメラを構えているであろう木崎に送っている笑みは、この男が木崎と千鶴の生活に深く食い込んでいる証のように思えたのだ。

 時雄の予感は当たった。突然の見知らぬ男の訪問に、不機嫌そうな顔をして出てきた伊藤は、まさに写真のとおりの男だった。
 その顔を見た瞬間、凍るような戦慄が時雄の身体を貫いた。
「どなたですか?」
 固まっている時雄に、伊藤はうさんくさげな視線を向けた。
 時雄は震える声を抑え、自らの名を名乗った。
「あなたにお聞きしたいことがあります。あなたのご友人の木崎ご夫妻のことです」
 伊藤の太い眉がぴくりと動いた。
「木崎さんたちがどうかしたんですか?」
「事情があって、お二人に至急会わなければいけないのです。もしよろしければ、お話を聞かせていただきたいのですが」
「そんなことを言われても、あんたが何者かも分からないうちに勝手によそ様のことを話すわけにはいかんよ。だいたい、私だってそんなに親しく付き合っていたわけでもない」
「・・・・そうでしょうか」
 時雄は低い声で応えた。ポケットを探り、つかみ出したそれをゆっくりと伊藤の前に突きつけた。芝居がかったことをしていることは自覚していたが、自分を抑えられなかった。
「―――――」
 伊藤が絶句するのが、見えた。
「どこで、これを・・・」
「私の質問に答えてもらえますか」
「待て。中で話そう。入ってくれ」

 伊藤は広い家にひとりで住んでいた。中年の男の一人暮らしにしては整理整頓がゆきとどいている。
 客間に通されて、時雄ははっとした。
 間違いなかった。ここが写真に映っていた部屋だ。
 あのおぞましい撮影はこの部屋で行われたのだ。
 顔色の変わった時雄を、伊藤はじっと見つめていたが、
「あんたはいったい何者なんだ」
 と、おもむろに尋ねた。
「私のことなどどうでもいいでしょう」
「あんたの質問にだけ答えればいい、というのか。言っておくが、あの写真は木崎さんに頼まれたから、モデルになってやっただけだ。誰からも非難される覚えはない」
 伊藤は強い調子でそう言った後、急に不安げな表情になった。
「まさか、あんた、警察のひとじゃないよね」
「警察だと困るようなことがあるんですか」
 伊藤を睨みつけながら、時雄はそう切り返し、また首を振った。
「やめましょう。こっちも言っておきますが、私は警察ではないし、あなたに迷惑をかける気もない。ただ、あなたにお話を聞かせていただきたいだけです。協力してください」
 時雄の調子に気圧されて、伊藤はようやくうなずいた。
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七塚 10/21(土) 19:24:57 No.20061021192457 削除

 写真を掴んだ掌にじっとりと汗をかいている。心臓の刻む鼓動が異常なほどに早まっていくのを感じる。それでも時雄は写真から目を逸らすことが出来ない。過去にたしかに存在したその光景から、目を逸らせない。
 震える指先でまた写真をめくる。
 瞬時に視界に入る恐ろしい場面。
 その写真では、自分は相変わらず服を着たままの中年男が、裸の千鶴を両腕で抱えていた。ただ抱えているだけではない。千鶴の両膝を抱き広げ、その股の付け根に隠された秘所をカメラに向かってあますところなく晒して見せていた。無惨に開陳された生々しい女性器。その向こうに見える千鶴の顔は、細い手でしっかりと隠されている。かすかに見える朱い唇が歪んでいた。
 思わず声にならない声をあげて、時雄は写真を放り出した。
 あらゆる感情の奔流が時雄を襲い、虚ろになった内部を満たす。眩暈がする。吐き気がする。とてもじっとしていられない。時雄は飛び出すように部屋を出た。
 意図も目的もなく、夜の街を歩いた。歩いているうちにも気分は少しも静まらない。不快な感情が澱のように心に沈殿していくのを時雄は感じる。
 写真を見ると決めたときから、覚悟はしていたはずだ。しかし、なんという屈辱だろう。いったい、これは何の報いだ? 苦しんで、苦しんで、苦しんできた七年の、これは何の報いだ?
 不意に冷たい風がびゅっと時雄の身体を行き過ぎた。上着も羽織らないうちに出てきてしまったが、夜の空気は相当冷え込んでいる。ここ数日は特にだ。気がつけば身体がどうも熱っぽいようだ。ここ最近はろくに食べず、眠らずの日々だったから、身体が悲鳴をあげるのも無理はない。
 もう、自分は若くないのだ。
 時雄は夜空を見上げた。本当は無数に浮かんでいるはずの星は、まばらにしか見えない。秋の空気はいつもより澄んではいたが、それでもこの煩雑な都会の空を浄化することはない。
 夜空を見つめているうちに少しだけ冷静な気持ちを取り戻し、時雄は帰途に着いた。このままでは確実に風邪を引く。そうなれば、明日からの行動に差し障る。
(明日から、か・・・)
 いったい、自分は何をするというんだ?
 時雄は心の内で思う。あんな写真など見るのではなかった。千鶴の話だけで知っていた、彼女の過ごした七年。その一端を先ほど時雄は垣間見た。彼女のはまり込んだ泥沼の深さを、そのとき初めて時雄は自分の目で見たのだ。
 同時に、時雄の中で何かが崩れ去った。今までどんな状況であっても、自分の内側で大切に守り続けてきた場所。その聖域は無惨にも踏みしだかれた。これ以上ないほどに汚されてしまった。
 昨夜、千鶴に告白されたときよりも、今朝、彼女が出て行ったことに気づいたときよりも、もっと絶望的な気分の中に時雄はいた。

 ふらふらとした足取りでマンションまで戻り、自室の部屋に鍵を差し込んだ。扉を開くと、携帯が鳴っている音が聞こえた。
 散らばった写真のほうを見ないようにして、時雄はリビングに戻り、電話に出た。バーテンからだった。
「ついさっき身体が空いたんで、あんたに何度も電話をかけたんだが、やっと繋がった」
 バーテンはなじるようにそう言った後で、千鶴を店に紹介したというその男の名や住所などを時雄に教えた。
 礼を言い、電話を切った後で、時雄は声もなくベッドの上に座り込んだ。
 消えたと思っていた手がかりが、ようやく舞い込んできた。
 それは喜ぶべきことなのだろうか。この道を進んでいった先には、さらにひどい衝撃が待っているのではないだろうか。
 希望よりもむしろ恐怖を、そのときの時雄は感じていた。
 目的を見失いかけている。肝心なのは千鶴を救うことだ。自分のことなど、どうでもいい。そう思ってはいたが、現実ははかなかった。
 結局、一睡も出来ず、時雄はその夜を明かした。
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七塚 10/21(土) 00:03:13 No.20061021000313 削除

「調べてみたんだが、いまはちょっと分からないな。あんたの連絡先を教えてくれ。そのひとのことが分かったら、すぐに連絡する」
 店の奥から戻ってきたバーテンは、相変わらずの仏頂面で時雄にそう告げた。
 さしあたって言うとおりにするしか、時雄には方法がなかった。
 その後は何を頼りに千鶴と木崎の居所を探せばいいのか分からないまま、いま時雄は自宅でバーテンからの連絡を待っている。
 いつまでたっても、バーテンからの連絡はない。騙されたかもしれないな、と思う。金を受け取った以上、義理は果たさなくてはならないと考える程度にバーテンが正直な男であったという保証などないのだから。
 所詮、自分に探偵の真似事など、無理な話であったのだ。
 諦めて、時雄は唯一連絡先の分かるかつてのサークル仲間に電話をかけた。久々に電話をかけてきて、いきなり木崎の住所を尋ねた時雄に、案の定、相手は疑念を抱いたようだった。曖昧に話をぼかしたが、結局のところ、相手はただ「知らない」との返事だった。
 八方塞がりだ。
 疲れと失望で何もかも投げ出したい気分だったが、千鶴のことを思えば簡単に放り出すことは出来なかった。いま千鶴がどんなふうにこの夜を過ごしているかを思えば、いくら疲れていようがやめることは出来ない。
 とはいえ現状を見れば悲観的になるのも無理はなく、万一、木崎と千鶴を見つけ出したところで、そこから先にどんな困難が待ち構えているか、想像も尽かないほどだ。だが、たとえどんな結末が待っていようとも、やれるだけのことはやらなければならない。ベストを尽くさなければならない。そうしなければ、自分はいつまでたっても、この七年の重みから抜け出すことは出来ない。
 そのためにはまず手がかりが必要だ。
 何かないか、と時雄は必死で頭を巡らす。昨夜の木崎や千鶴とのやりとりで何か手がかりになるようなものはなかったか。
 はっと思いついて、時雄は昨日着ていた背広のズボンを探る。
 あった。
 公園で木崎を殴り倒したとき、そばに落ちていた封筒だ。中身はおそらく写真。木崎が『客』であったサラリーマン風の男に見せていたものに相違ない。
 この写真に映っているのは、おそらく時雄にとって、もっとも見たくないものであるはずだった。同時に、千鶴にとっても、もっとも見られたくないものであるはずだった。見る人間が時雄とあっては、なおさら―――。
 これが木崎と千鶴の居所を知るための、いかほどの手がかりを含んでいるかは分からない。むしろまるで役に立たない可能性のほうが圧倒的に高い。
 ただ、時雄の心に深い傷をつけるだけで。
 しかし、現状では他に手がかりになりうるものは何もなかった。
 時雄は立ち上がった。冷蔵庫から昨夜のワインを取り出し、瓶に口をつけて残りを一息に飲んだ。
 睨むように封筒を見つめ、ゆっくりとその封を開いた。
 酔いのせいではなく、心臓のどくどくいう音が聞こえる。
 取り出した写真は数枚あった。
 その一番上にあった写真が時雄の目に入る。
 千鶴がいた。白いノースリーブのシャツに、ピンクのミニを穿いている。今の千鶴よりいくらか若い頃を写したもののように思えた。
 その隣には男がいた。意外なことに木崎ではない。背は低いが、肩幅の広いがっちりとした男だ。年は五十を過ぎた辺りか。濃い眉に厚い唇、だが決して男臭い顔ではなかった。へらへらと笑った表情のせいか、中年を過ぎても金と暇を持て余した遊び人のようにも見える。
 一方の千鶴も顔は笑っていたが、気のせいかその表情にはどこか怯えのようなものが窺えた。
 ふたりは並んで立っている。場所はどこかの室内だが、ホテルの一室のようではなかった。若々しい装いの千鶴に比して、年齢のずいぶん上らしい男のために、ふたりが並んだその写真には妙な違和感があった。
 厭な予感が確信に変わるのを感じながら、時雄はおそるおそる写真をめくる。次の写真を一瞥して、時雄は低く唸った。
 まったく同じ場所、同じ構図で撮られた写真だった。大きく違っているのはただひとつ。その写真の千鶴は全裸だった。隣の男に両腕を後ろで掴まれているらしく、千鶴は隠そうにも隠せない裸をカメラの前に晒していた。綺麗な形の胸も、白く滑らかな腹も、その下に茂る艶やかな陰毛も、すべて。
 写真の中の千鶴はまだ、笑っていた。その表情は時雄にはほとんど泣き笑いのように見えた。一方の男は前の写真よりも一段と楽しげな笑みを浮かべ、カメラに向かっておどけていた。 
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七塚 10/20(金) 23:47:25 No.20061020234725 削除

 千鶴はきっと木崎のもとにいる。千鶴を救うためにも、いま直面している問題をすべて解決するためにも、木崎を見つけ出さなくてはならない。
 だが、木崎が現在どこで暮らしているか、時雄は知らない。
 可能性は低いが、かつての美術サークルの仲間に聞けば、知っている者がいるかもしれない。とはいえ、そもそも時雄自身がもはや彼らとの関わりを断ってしまっていた。連絡先の分かる者がいないではないが、もしその相手が時雄たちの間にあったいざこざを噂で聞いていて、現在では木崎が千鶴と再婚していることを知っていたとしたら。木崎の現住所を聞く時雄の意図を、きっといぶかしむことだろう。その場合、相手になんと説明すればよいのか、時雄には分からなかった。

 昨夜、あの乱闘の後で倒れた木崎はどうしただろう。自分から警察に行くような真似はすまい。喧嘩の原因を聞かれたら、自分もただではすまないからだ。そもそも満足に動けたかどうかすら怪しい。異変を聞きつけた第三者が、倒れている木崎を見つけ、救急車を呼んだ可能性はある。もしそんなことがあったとしたら、後になって事情を聞きに警察がやってくるかもしれない。そうなったとしても、木崎は真実を話さないだろう。暴漢に遭ったとでも言うかもしれない。たとえ木崎が真実を話したとして、警察が時雄のもとへやってくるような事態になったとしても、それはそれでいい。千鶴を木崎のもとから引き離す糸口がつかめる。勤め人としての時雄の経歴に傷がつき、最悪辞めることになるかもしれないが、そうなったらなったでかまわない。覚悟は出来ている。
 あれこれと考えたが、具体的な行動を思いつかないままに、時雄は千鶴の働くバーの前まで行った。結局のところ、さしあたっての手がかりはこの店しかない。今夜、千鶴がこの店に来る可能性は低いだろうと思いつつ、開店時間を待たずにバーの戸を叩いた。
 まだ店を開けてもいないのにやってきた客に、バーテンは驚いた顔をしたが、すぐにその客が昨夜店のホステスを連れ去った男だと気づいたらしかった。
「ちょっとあんた、昨夜のあれはどういうつもりだ」
 中年の体格のいいバーテンは、そう言って時雄を睨んだ。返事次第によってはただじゃおかないという風情だ。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
 時雄は深々と頭を下げて謝罪しつつ、店内に千鶴がいないことを確認した。店にはこのバーテンの男しかいなかった。
「どうもご迷惑をおかけしました。これはお詫びです。少ないですが受け取ってください」
 財布から一万円札を二枚取り出し、バーテンの前に置く。いきなりの時雄の対応に、バーテンは目を白黒させた。
「何がなんだか分からんな。いったいあんたはどこの何者なんだ」
 時雄は非礼を詫びた後、改めて名を名乗った。
 不機嫌な顔をしたバーテンは、それでも万札に手を伸ばした。その後でまたじろっと時雄を睨んだ。
「で、何?」
「・・・は?」
「だから、あんた、あの女の何?」
「・・・親族です」
 返事に苦慮した時雄は、咄嗟にそう答えた。
 バーテンは疑わしい目つきで時雄を見た。
「親族だとしてもなんで、店の者に何の断りもなく連れていったわけ? 十代の小娘でもあるまいに」
「緊急の用事があったんです。とにかく気が焦っていて、無礼な真似をしてしまいました。本当に申し訳ありません」
「まったく・・・お客さんがびっくりしていたよ。それでもって今度は電話一本で、『店を辞める』なんて言い出すし」
「え・・・・」
 時雄は思わず驚きの声をあげた。
「なんだ、あんた知らないのか。さっき、あの子から電話があって『事情があって、店を辞めなければいけない』とまあいきなりこうきたのさ。昨夜のこともあるから、こっちも怒って怒鳴りつけたら平謝りするばかりで、最後には電話を切っちまった。いい迷惑だよ、ほんと」
「そうですか・・・」
 たった一日のうちに、千鶴はこの店を辞める決心をしたのだ。或いは木崎の意向かもしれない。どちらにしてもその意図は分かりきっている。時雄に後を追ってこさせないためだ。
「あの、こちらから彼女に連絡を取れないのでしょうか。住所や電話番号などは」
「うちもいいかげんな店でね。電話番号は分かるが、あの子がどこに住んでるかは知らないんだ。その電話もさっきかけたが、まるでつながらない」
 目の前が暗くなる想いで、時雄はバーテンの言葉を聞いた。さしあたっての手がかりが消えてしまった。
「あんたこそ、親族ならなぜ連絡が取れないんだ」
 逆にバーテンが聞いてきた。
「実は・・・あの子は私の妹なんですが、若い頃に家出しましてね。実家のほうとは絶縁状態なんですよ。それでいま、父親が病気で危篤状態になっているので、なんとか最期に一目だけでも会わせてやりたいと思い、わずかな手がかりからこの店で働いていることを知って訪ねてきたんですが、昨夜店から連れ出した後で、結局逃げられてしまったんです。私のほうとしても、なんとか連絡を取る手段を探しているんですが・・・」
 我ながら苦しい嘘だと時雄は思ったが、バーテンは存外簡単に信じたようだった。
「そうかい。ふん、なんとなく翳のある女だとは思っていたが、そんな事情があったとはね」
「あの、彼女はどういう経緯でこの店に?」
「オーナーの友人の紹介だよ。ホステスとしてはいささかトウがたっているが、あんたの妹さんはあのとおりの美人だしね。うちも人が少なかったから、渡りに舟だったわけ」
「その友人の方の連絡先は分かりますか? ぜひとも教えていただきたいのですが」
「分からないこともないが、そう言われても困るな。オーナーの友人というだけで、私個人の知り合いじゃないから、勝手に連絡先など教えられるはずもない」
 時雄は黙って財布を開き、また一万円札を取り出した。
「すみません。本当に困っているんです。どうか教えてください」
 バーテンは目の前に置かれた一万円札を見つめていたが、やがて辺りを窺うようにしてその金を懐にしまった。
「待ってな」
 声をひそめて短く言い、バーテンは店の奥へ消えて行った。
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七塚 10/19(木) 19:16:31 No.20061019191631 削除

 しばらくの間、時雄は呆けたようにベッドの上に座っていた。
 頭がまるで働かない。
 コーヒーでも入れようとようやくベッドから出たが、思い直して服を着た。
 千鶴がどれくらい前にこの部屋から出て行ったのかは分からない。もしかしたら、まだその辺りにいるかもしれない。

 部屋を出ると、雨がぱらぱらと降っていた。玄関に置いた傘はそのまま残っていた。千鶴は雨が降る前に出て行ったのか。それとも雨に打たれるのもかまわず、そのまま歩いていったのか。
 急ぎマンションの階段を降り、駅への道を走った。
 駅についてからも、しばらく構内を捜して歩き回ったが、千鶴は見つからなかった。
 諦めて、駅の喫茶店に入る。モーニングセットを頼む気にもならず、コーヒーだけを注文した。
 運ばれてきたコーヒーを啜り、煙草を吹かすと、身体中がだるくなった。
 時雄はため息をつく。深い徒労感がじわじわとやってくるのを感じる。

 さっきは夢のように感じたが、昨夜、千鶴はたしかにあの部屋にいたのだ。彼女が過ごした苛酷な年月の話を、木崎との成り行きを、身を切り裂かれるような想いで自分は聞いた。
 最後には、もつれるように愛し合った―――。
 腕の中に抱えた千鶴の感触が、いまもまだ時雄には残っている。彼女の体温が、肢体の重みが、激しい息遣いが、どんな言葉よりも生々しい記憶となって時雄の中には残っている。
 だが、朝になり、時雄が目覚めたとき、部屋に千鶴の姿はなかった。誰もいない、独りきりの部屋があるだけだった。
 そして、それこそが時雄にとって、当たり前の日常の光景だった。だから、すべてが夢であったかのように感じたのだ―――と思う。
 なぜ千鶴は姿を消してしまったのか。
 去るにしても、なぜ時雄に一言もなかったのか。
 本当は分かっている。言えば引き止められるから、千鶴は何も言わなかったのだ。そして、時雄に引き止められるにもかかわらず、千鶴が帰らなければならない場所はひとつしかない。
 木崎のもとだ。
 その場所こそが、今の千鶴にとっての日常なのだ。
 時雄にとっては胸が苦しくなるような、現実だった。
 普通に考えれば、当然のことなのかもしれない。今は別の夫がいる身でありながら、かつて別れた夫の部屋で一夜を明かした。そのことのほうが世間的に見れば異常なのだろう。
 ふと、厭な考えが時雄の脳裏に浮かぶ。昨夜、千鶴がベッドの上で見せた激しい昂ぶり。あれは時雄を誘い、眠らせ、木崎のもとへ帰るための技巧ではなかったか。
 時雄は瞳を瞑り、その疑念を打ち消した。そこまで疑いたくはない。あの瞬間、千鶴が見せた情熱は、真剣な表情は本物だった。
 だからこそ、いま時雄の胸は沈んでいる。
 千鶴を救いたい。幸せにしてやりたい。一度はその夢に挫折してしまった自分だが、今度こそはその夢を本当にしたい。
 だが、一方でいまの自分にいったい何が出来るのだろうかという思いがある。七年前に別れた夫である自分が。
 そのことは千鶴もよく分かっていたはずだ。加えて彼女には時雄に対する重い罪の意識がある。
 結果、千鶴は時雄に何も告げず、ひっそりと出て行った。
 そのこと自体が時雄の想いに対する、千鶴の答えであったように思う。いや、きっとそうなのだろう。
 秋の雨に打たれるまま、ひとり悄然と歩いている千鶴の幻影が浮かび、いつまでも時雄の心をかき乱した。

 喫茶店を出ると、時刻はもう昼近かった。
 休日の駅前は混んでいる。意気揚々と街を行く若者たち、腕を組んだカップル、子連れの夫婦の幸せを絵に描いたような楽しげな表情。その間をすり抜けるように、時雄はひとり家路につく。
 いったいなんでこんなことになってしまったのか。
 苦い想いが時雄の胸を満たす。
 昨夜聞かされた千鶴の辛い話を思い返す。木崎に犯され、家庭を壊され、最愛の母親まで病魔に冒された。そのために身体まで売る破目になり、挙句の果てにはすべての元凶ともいえる木崎の奴隷状態になっている。
 時雄自身、自分が幸福な人間だとはとても思えないが、千鶴の場合は言語を絶するほどひどい。たいていの女なら一生かかっても経験しないような不幸が、わずか七年で千鶴の身に降りかかったのだ。
 なぜ、こんなことに―――。
 時雄の知っている千鶴は、ごくごく普通の女だった。何かを高望みするわけでもなく、現実的すぎるわけでもなく、ただそこにある普通の幸せで十分だと思っている、そんな女だった。
 そんな普通の女が、なぜここまで不幸にならなければいけないのか、時雄には分からなかった。
 くらっと眩暈を感じ、時雄は足を停めた。
 激しい感情が襲ってくる。それは悲哀ではなかった。わけの分からないほど強い怒りだった。
 木崎に対する怒り、自分と千鶴の運命に対する怒り―――。
 時雄は踵を返し、今来た道を戻り始めた。どう考えても、このまま終わることは出来なかった。
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七塚 10/18(水) 23:42:19 No.20061018234219 削除

 ベッドは譲ると言ったのだが、千鶴がどうしても自分がソファで寝ると言い張ったので、結局、時雄がベッドで寝ることになった。
「おやすみ」
 そう言って電気を消す前に、ちらりと見えた千鶴の潤んだ瞳が、いまこうして暗闇の中でも瞼に浮かんでいる。
 思えばふたりが一室で寝るのも、ずいぶん久しぶりのことだ。
 もう二度と、こんな機会は訪れないと思っていた―――。
 いまこの暗闇の中、すぐ傍にに千鶴が寝ているのだと思うだけで、時雄の胸は切なく疼く。まるで十代の少年のようだな、と時雄は力なく苦笑した。あれほど辛い思いをした後で、まだそんなことを考えている自分に、自分で驚く。
 想いはさらに過去へ飛び、初めて千鶴とともに朝を迎えた日のことを時雄は思い返した。いま思えば、あまりにも未熟な交わりだったが、ひとつになったときの喜びは今でもはっきりと覚えている。他人に話せば笑われるだろうが、あれは自分のはかない生涯の中で最高の日だった。
 翌朝目覚めて、明るい日の光の中、互いの顔を見あったとき、千鶴も恥ずかしがっていたが、時雄の照れようはそれ以上だった。あまり照れるので、しまいには千鶴のほうが吹きだしてしまったくらいだ。まったくもって、格好わるい男だった。あの頃も今も、そんな不器用なところはたいして変わっていない。
 他愛なくも幸福な思い出が次々と時雄の脳裏に蘇る。短い結婚生活だったが、楽しいこともたくさんあった。そんな思い出をひとつひとつ思い返しているうちに、やがて記憶は七年前のあの日に届いて、時雄の背筋を凍らせる。
 いや、千鶴の話を聞いた今では少し違う。本当に恐ろしいのは、千鶴が木崎と過ごしたその後の七年だった。
「起きていますか?」
 突然、呼びかけられて、時雄ははっとした。
「起きてるよ。酒は飲んだけれど、今夜は眠りがなかなかやって来ない」
「昔は、あなたはあまりお酒を飲むほうではなかったと思います」
 暗闇から千鶴の声が返ってくる。
「仕事の付き合いで段々と好きになったのさ」
 嘘である。本当は独りの夜を誤魔化すために、酒を飲み始めた。以前は行かなかったバーなどにも一人で行くようになり、そして千鶴と再会したのだ。
「私が家を出て行った後で・・・」
 そんなふうに言いかけて、暗闇からの声はとまった。
「何?」
「いえ・・・」
「気になるじゃないか」
「・・・私が出て行った後で、あなたがどんなふうに思って暮らしていたのかと思って・・・」
 消え入るような千鶴の声。
 時雄は思わず千鶴が寝ているであろうソファのほうに目をやった。しばらく考えた後で、口を開いた。
「最初は君を怨んだよ。ただただ君を憎んで、毎日を過ごしていた」
「・・・・・・」
「でもその後、凄く淋しくなった。淋しくてたまらなかった。仕事から帰ってきて、家のドアを開く前に、もしかしたら君が戻ってきてくれているんじゃないか、とバカなことばかり毎日考えた」
 呟くように時雄は言って、ごろりと寝返りを打った。
 闇の奥から、静かに千鶴の嗚咽が聞こえてきた。
「頼むから泣かないでほしい。そんなつもりで言ったんじゃないんだから」
 慌てて時雄は言った。だが千鶴は何も答えなかった。
 しばらくそうして時は流れた。
 不意に闇の中でごそごそと何かが動く音がした。
「千鶴?」
 振り返った時雄の視界に、薄闇の中でもはっきり白いと分かるものが入った。
 それが何なのかはもちろん、すぐに分かった。
 白いものはするりと時雄のベッドに入ってきた。
 駄目だ。いけない。
 そんなことをしてしまったら、今度こそ俺たちはどうにかなってしまう。またあの愛憎の渦に巻き込まれてしまう。
 そんな想いが言葉となって時雄の口から出かけた瞬間、千鶴の唇が時雄の口を塞いだ。
 冷たい肌の滑らかな感触が、ふっくらとした胸の優しい重みが、服の上からはっきり感じられた。
「ごめんなさい」
 耳元で千鶴の囁く声がした。
「もう軽蔑されてもかまわない―――」

 すべてを捨て去ったかのような千鶴の振る舞いに、結局、時雄も抗えなかった。抗えるはずもない。七年間ずっと焦がれていたのは、時雄のほうだったのだから。
 久々に触れた千鶴の肢体は、以前よりもずっと『女』を感じさせるものに変わっていた。時雄の愛撫に応える反応もまた、『女』そのものという感じだった。そんな千鶴に時雄は胸を刺されるような痛みを感じながらも、惹きつけられずにはいられなかった。
 夜目にも白くまるい乳房を撫で、背中に回した手で背肌をさすると、それだけで千鶴は忍び声をあげた。かくっと頸が折れ、倒れこんだ千鶴の唇から洩れる吐息が、時雄の胸をくすぐった。
 むしろおずおずと、時雄は千鶴の秘所へと手を這わせた。柔らかい繊毛を分け入って、さらに奥へと手を伸ばす。その箇所に触れた途端、千鶴は「あっ」と声をあげ、打たれたように全身をふるわせた。時雄も驚いていた。千鶴のそこは熱いほどたぎっていた。
 時雄がなんとか理性を保っていられたのも、そこまでだった。その後は千鶴の後を追うように、没我の底に沈んでいった。
 後から思い返しても、その夜の千鶴の昂ぶりようは激しかった。最初はそれでも表情を押し隠そうと忍苦して、息も絶え絶えになっていたが、次々と波のように打ち寄せるらしい悦びに、最後はほとんど泣き声になっていた。何度も何度も、果てしなく昇りつめる千鶴の反応は、完全に開花した女のそれだった。
 幾度となく求め合い、高め合った後で、時雄は吸い込まれるような眠りに落ちていった。頬にかすかにかかった千鶴の髪の艶やかな感触が、沈み込んでいく時雄の意識にいつまでも残っていた。

  
 翌朝―――。
 目覚める前から、時雄は厭な予感がしていたように思う。
 窓の外から、かすかな雨音が絶え間なく聞こえていた。
 千鶴はもういなかった。
 消えていた。
 昨夜、彼女がこの部屋にいたことが、すべて夢だったように。
 なぜか、そのときの時雄には感じられた。
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七塚 10/18(水) 03:15:48 No.20061018031548 削除

 時雄は冷蔵庫から安物のワインを取り出した。
 時刻はもう深夜三時を回っていて、明日は休日とはいえ、いまから飲み始めるには遅すぎる時間帯だったが、飲まずにはとてもいられなかった。
 それでいて、身体も心もひどく疲れている。
 手酌でグラスに酒を注ごうとしたら、千鶴が「私が注ぎます」と言った。時雄は無言でボトルを手渡した。
 こぽこぽ、とワインの音だけが室内に響く。
「君はいらないのか」
 千鶴は首を振った。
 そして、また沈黙。
 いったい―――自分は何をすべきなのか。
 何を語るべきなのか。
 何を想うべきなのか。
 そんな思念が川底の水泡のように、意味もなく時雄の頭に溢れていた。だが、その思念を真剣に考える余裕も気力もすでになかった。
 暗澹たる気分だけが、泥濘のように時雄の全身にまとわりついていた。
 眼前の千鶴は、かつて時雄の妻だった女は、ただ静かに座っている。その顔に過去を語っていた先ほどまでの張りつめた様子はなく、むしろ放心したような表情をしている。
 彼女もまた疲れきっているのだ。
 過去に、そして現在のこの瞬間に―――。

 千鶴の語ったことのすべてを、時雄が理解できたわけではなかった。いや、頭では分かっても、心がそれを受け入れることを拒否していた。
 七年前に千鶴が辿った苦しい道のりのことは分かる。夫であった自分がそのときの彼女に何も出来なかったことについては、改めてほぞを噛む思いだ。
 だが、たとえいかなる事情があったとしても、千鶴がある瞬間に木崎を受け入れたこと、そのことに間違いはなかったのだった。それから現在に至るまで、たしかに彼女の心の一部分は木崎に占められている。信じられないような途中の経過さえ抜けば、当たり前すぎるほど当たり前の事実。だが、その事実を実際に彼女の口から聞くことは、何にもまして時雄には耐えがたかった。
(馬鹿げた話だ・・・)
 ふっと時雄は内心で自分を哂った。七年前、自分の役回りは、誰よりも滑稽なものだった。そして最大の滑稽事は、七年後の今になっても、自分がすすんで最も滑稽な役を引き受けたことだった。哀れな道化師の役を。
 なぜだろう。なぜそれでも自分はやめられないのだろう。
 いま目の前にいる千鶴は、時雄の知っている千鶴ではない。いや、時雄が彼女のことを真に理解していたことなど、きっと一度もなかったのだろう。時雄は自身の望む女の姿を千鶴に見ていただけなのだ。
 ずっと、あまりにも長い間―――。
 だから、ふたりが夫婦でなくなったときでさえ、何ひとつ気づくことが出来なかった。
 千鶴はきっと知っていた。時雄が自分のことなど少しも分かっていないということを。面と向かってそう言ったとしても、きっと彼女は否定するだろうが。


「今日はもう寝よう。これからのことは明日考えよう」
 台所でグラスを片付けている千鶴の背中に、時雄はそう呼びかけた。
「・・・・・」
 千鶴は黙って振り返り、時雄を見つめた。翳りを帯びたその瞳が何を想っているのか、時雄には分からない。
「歯磨きは新品のが洗面所にある。ベッドは君が使ってくれていい。俺はソファで寝る」
 千鶴の唇がかすかに動いた。
「どうして・・・?」
 何に対しての「どうして?」なのか。やはり分からないまま、時雄は口を開いた。
「・・・今回、俺はわけも分からないまま、衝動的に動いてしまった。もしかしたら、いまの君には迷惑なことだったかもしれない」
「迷惑だなんて・・・。ただ・・・どうしてあなたがそこまでしてくれのかが分からなくて・・・。七年前から私こそ迷惑のかけどおしで・・・さっきの話でなおさらそのことが分かったでしょう。それなのになぜ・・・?」
 かすれたような千鶴の声だった。
「なぜなのか、俺にも分からない。ただ、あのときの俺は何も出来なかった。そのことで君も、俺も傷ついた。今も後悔してる。だから、今回のことは俺の問題でもあるんだ。俺はもう傷つきたくないし、君にも傷ついて欲しくないんだ。本当にそれだけなんだ」
 もう興奮で我を忘れるような真似はしたくなかった。出来うるかぎり穏やかに、時雄は自分の真情を伝えたかった。たとえ自分の見ていたものがすべて幻影だったとしても、いま眼前には彼女がいる。そのことだけは幻ではなかった。
 千鶴は黙って、床を見つめていた。
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七塚 10/16(月) 06:56:47 No.20061016065647 削除

 自分がかつて最も愛した女―――。
 その女の坂道を転げ落ちていくような人生―――。
 時雄には辛すぎる話だった。もうやめてくれ、とさえ思った。
 だが、千鶴は語り続ける。何か得体の知れないものに衝き動かされてでもいるように。

「風俗のお店で働いているときには、いつも母のことを想っていました。母のためだ、母を救うために私は働いているのだと強く想っていなければ、私は私を支えられそうになかったんです。その一方で見知らぬ男性と肌を合わせているときには、いつもあなたの顔が浮かびました。あなたはいつも私の心も身体も大切にしてくれていた、愛してくれていた。それなのに私はあなたを裏切り、あげくの果てにこんなことをしている。そう思うと、あなたへの申し訳なさと自分への情けなさで気がおかしくなってしまいそうでした」
 実際、思い余った千鶴はいっときは自殺すら考えたという。
 だが、母親のことを思うと、それも出来なかった。
 ぎりぎりの状態まで千鶴は追い詰められていた。
「そんな頃でした。木崎がお店に現れたのです」
 木崎が『客』として自らの目の前に現れたとき、千鶴は驚愕し、そして憤った。
 現在の自分の境遇を知己に見られる恥ずかしさなどというものもなかった。ただただ、自分をこんな境遇まで堕とした男への憎しみがあった。
 もし、その日、木崎が『客』として千鶴を意のままにしようとしていたら、千鶴はその場で木崎を殺すか、自分が死ぬかぐらいのことをしたかもしれない。千鶴はそう語った。
「でも・・・木崎は私に何もしなかったんです」
 意外なことに木崎は、千鶴に憐れみの視線を向け、自分のしたことを詫びたのだった。木崎が千鶴を買った時間の間ずっと。
「もちろん、私は木崎の言葉を聞く耳を持っていませんでした。いまさら何を言ってるのだ、と思うだけで、彼を憎む心は消えませんでした」
 木崎はそれからもたびたび店に訪れた。訪れるたび、木崎は千鶴を指名し、ひたすら自分のしたことを謝罪し続けた。
 そんなことがずいぶん長く続いた。
 いつしか千鶴の心も変わっていった。
「最初は木崎の顔を見るのも厭でした。彼が私に対していくら謝っても、彼のしたことが消えるわけではありません。でも・・・その頃の私は日々の生活に、仕事に本当に疲れていました。たとえ厭な相手であっても、木崎が来ているときは、その間だけは私は嫌いな仕事から解放されることが出来たんです」
 やがて、千鶴は木崎の訪れを心待ちにするようになっていった。
「認めたくないことです。でも、本当のことだから・・・。その頃の私は本当にひどい精神状態でした。そしてそんな私に優しい言葉をかけてくれたのは木崎だけだったんです。自分でいやになるくらい、私も女だったんですね。表面的には木崎を憎もう憎もうと思っていても、いつしか彼に対して甘えの心が生まれていったんです」

 千鶴の変化を敏感に察知したのか、やがて木崎はひとつの提案をすることになる。
『君の今の境遇はすべて俺のせいだ。その罪滅ぼしとして、俺が君のお母さんの治療費を払う。だから、君はこの店をやめても大丈夫だ』
 千鶴はその言葉に何も応答せず、その日木崎は帰っていった。
「木崎の言葉が何を意味するのか、分かっていました。その提案を受け入れたら、どうなるのか、私にもよく分かってはいたんです。だから、この件に関しても、私は何一つ言い訳は出来ません」
 次に店を訪れたとき、木崎は再びその話を持ち出した。
 千鶴は―――その提案を受け入れた。
「その日、私は初めて自分の意思で木崎に抱かれました」
 そして千鶴は店をやめ、木崎のものとなった。

 千鶴の話はそこで終わった。
 時雄は―――打ちのめされていた。
 言いたい言葉はやまほどあった。
 だが、言うべき言葉が思いつかなかった。
 激しい虚脱感が時雄の全身を覆っていた。

「おかしいじゃないか・・・」
 苦しい沈黙の後で、時雄はようやく言葉を発した。絞り出すような声だった。
「君が木崎に救われたのは分かった。たとえ木崎にどんな思惑があったとしても、だ。その当時木崎は君を救った。これは間違いない。だが、なぜ今の君はその木崎の言いなりになって、他の男に身体を売るような真似をしている。絶対におかしい。納得できない」
 子供のように痛む頭を振りながら激しい言葉を投げつける時雄を、千鶴は憐れむような哀しむような瞳で見た。
「あなたに納得できないのは当たり前のことです。私にだって自分のしていることが分からない・・・。ひとつだけ言えるのは、木崎の提案を受け入れたとき、私は彼にすべてを売り渡してしまったんです。自分が追いつめた女に対する同情だけで、彼があんな提案をしたとは私だって思っていませんでした。でも、私はそれを受け入れてしまった。その頃、私はひどい境遇にいて、なんとしてもそこから逃れたかった。だから私は木崎の差し出した手を掴んでしまったんです。ひとりの女としての誇りも何もかも投げ出して」
 そのときから私は決して彼の言うことに逆らえない女になってしまったんです―――。
 千鶴はそう言った。
「何もかも投げ出して・・・か。その何もかもに、俺も、俺との思い出も含まれていたんだな」
 時雄は呟いた。絶望が身体中の血に溶けて、全身を駆け巡っているようだった。
「ごめんなさい・・・」
 すっと顔を伏せながら千鶴が言った言葉を、時雄はどこか遠い場所で聞いた。
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七塚 10/15(日) 18:50:00 No.20061015185000 削除

「俺と別れた後―――」
 ソファに沈み込みながら、時雄は独りごちるように言った。
「君はどうしていたんだ? 木崎とは・・・」
「木崎とは別れました。あなたという脅しの材料がなくなった後では、もう彼との関係を続ける意味はなくなっていました。その頃の私にとっては、彼はあなたとの関係を破綻させた憎むべき対象でしかありませんでした」
 その頃の私にとっては―――。
 今は違うということか。
 ならばなぜ、いつ木崎は千鶴にとって別の意味を持つ存在になったというのか。
「あなたと別れて、私は大桑にアパートを借りてひとりで暮らしていました。近くのスーパーでパートをしながら、細々と生活していたんです。後悔や慙愧の念は消えないけれど、こうなってしまった以上はもう誰も傷つけず、迷惑もかけずに静かに暮らしていきたいとそればかり願っていました。でもそんなある日、突然母の病気が発見されたんです。血液の悪い病気でした」
「お義母さんが・・・」
 千鶴の母親の久恵のことはもちろん、時雄も知っている。久恵は若い頃に夫と別れていて、千鶴と娘一人母一人の生活を送ってきた。それだけに千鶴のことをとても大切にしていて、彼女が時雄と結婚することになったときも、くれぐれも娘をよろしくと何度も頭を下げられたことをを覚えている。
 いつもにこにことしていて、仏様のように優しい人だった。
「全然知らなかった・・・」
「母の病気は手術などで治る類のものではないそうです。長期入院して薬物投与を続けながら、経過を見ていくしかない。母は今も入院しています」
 悲痛な声で千鶴は語った。
「当時、私はパニックになりました。あなたと別れて、このうえ母までいなくなってしまったら、私は本当に独りぼっちになってしまう。でも、私にはお金がありませんでした。パートの給料くらいでは母の治療費すら満足にまかなえません。私たち母子には頼りになる親戚もいませんでしたし」
「なぜ・・・俺に何も言ってくれなかった」
「あなたには言えなかった。絶対に。どんなことがあっても、あなたにはこれ以上迷惑はかけられなかった」
 きっぱりと言った千鶴の言葉に、時雄は絶句した。
「私はパートをやめて、お金になる風俗の店で働き始めました」
「・・・・・・」
「厭な仕事でした。あなたと結婚して幸せに暮らしていたころは、まさか自分がそういうお店で働くことになるとは思ってもいませんでした」
 千鶴は広げた自分の掌をじっと見つめていた。
 消せない過去を見るように。
「当時、私は人妻のソープ嬢という名目で売り出されていました。冗談みたいな話ですね」
 あなたと別れて間もなかった私が―――。
 千鶴は言った。
 時雄は声もなく、天を仰いだ。
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七塚 10/14(土) 00:04:10 No.20061014000410 削除
 窓の外から電車の過ぎ行く音が聞こえた。時雄の住むマンションのすぐ近くには線路が走っている。もう終電は終わっているはずだから、回送電車か何かだろう。
 時雄は立ち上がって、少しだけ空いていた窓を閉めた。秋の空気が冷たかった。
「一本、吸っていいかね」
 千鶴はうなずいた。いままでどうしても打ち明けられなかった過去の話をしているうちに、千鶴はかえって冷静さを取り戻してきているようだった。いや、そうではない。話しているうちに、千鶴の顔から次第に表情が消え、声にも抑揚がなくなってきている。それだけだ。神経のほうはいっそうに張りつめているように思える。
 生気を失ったようなその表情を不安な想いで見つめながら、時雄は煙草を取り出した。火を点ける手が震えている。冷静さを欠いているのは、時雄のほうも同じことだった。
 だが、もう引き返すことは出来ない。引き返す気もない。
「君は木崎に脅された」
 呟くように言った自分の声が、ひどく酷薄なものに聞こえて時雄は心中で驚いていた。
「そして関係を強要された。そうなんだな」
「そうです」
「・・・それでも、どうしても俺には分からない。君がなぜそんな木崎の手管にやすやすと従ってしまったのか、納得できない。脅された時点で、君はただの被害者だった。木崎が俺にバラすのを恐れたと言うのなら、君から俺に打ち明けてくれればそれですんだ」
 時雄は煙草をもみ消した。
「何度も同じことを言ってすまない。済んだことを咎めても仕方ないとは分かっている。でもそう思わずにはいられない」
 言いながら、時雄は木崎が千鶴に言ったという言葉を思い返していた。
『あいつはひとの過ちを簡単に許せるような人間じゃないからな』
 そう―――なのか。
 木崎が自分をどういうふうに見ていたか。そんなことは問題じゃない。ただ、千鶴まで自分をそんなふうに思っていたかと想像することは苦痛だった。
「あなたのことを信じていなかったわけじゃない」
 時雄の心中を見透かしたように千鶴は言ったが、その後に自らの言葉を否定するように弱々しく首を振った。
「いえ・・・そうではありませんね。どう言い訳しようと、あなたに打ち明けられなかったのは、私が弱かったせい。あなたを信じ切れなかった私の弱さのせい。あなたに責任があるわけではありません」
「責任とかそんなのはどうでもいい」
 ただ哀しいだけだ。情けないだけだ。
 時雄は思った。
 だが、千鶴は語ることをやめなかった。
「私は弱かった。あなたのことを愛している、信じている。そう思ってはいても、心の底では真実を知ったあなたに捨てられることに怯えていたんです。あなたとの平穏な暮らしを失うことが何よりも怖かった―――」
 凍りついた瞳で、千鶴は時雄を見た。
「そして私はあなたを裏切った―――」

 最初は『あと一度』という話だった。
 あと一度、会ってくれるだけでいい。それで今までどおりの生活が還ってくる―――。
 月並みな悪魔の誘惑。
 そのあと一度が二度になり、三度になり、やがて破綻するまでの数ヶ月ずっと続いたこともまた、月並みな展開である。
 くだらない三流ドラマ。
 当たり前のように夫と顔を合わせ、何食わぬ顔で普段の自分を演じながら、他方では別の男の前で女の貌をすることを強要される日々。
 そんな二重生活が長くなればなるほど、千鶴の肢体にまとわりつく罪はその重さを増していった。
 不実、背信、裏切り―――。
 増えていく罪の重さが増せば増すほど、もう途中で放り出すことは出来なくなっていく。
 いくら疲れても、磨り減っても、止まることは出来ない。
 壊れるまでは。
 そして―――そのときは訪れた。

「あの日、出張が急に取りやめになって帰ってきたあなたに、すべてを見られて・・・私はもっとも危惧していたことが現実になったことを知りました。それでも―――私は心のどこかでほっとしていました。もうこんな綱渡りのような日々を送らなくて住む。そのことばかり思っていました」
 千鶴の大きな瞳がニ、三度瞬いた。
「本当に私はエゴイストですね。誰よりも辛いのは、傷つけられたのはあなたのほうなのに、私は自分のことばかり考えていた。最初はあなたとの生活を守りたい一心だったのに、その頃にはもう嘘をつき続けることに疲れきっていて、自分が楽になることばかり考えていたんです。それでいて、この期に及んでも私はまだ体裁を気にしていました。あなたに何があったんだと問い詰められて、私は何一つ語りませんでした。言い訳をするのは厭だった。真実を告げて、木崎の奴隷になっていたことをあなたに知られるのも厭だった。嘘をつくことにももう耐え切れなかった。結局―――私はもっとも卑怯なやり方で逃げてしまったんです」
 そう語る千鶴の声には、底知れぬ暗闇の響きがあった。
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七塚 10/12(木) 18:17:14 No.20061012181714 削除

「・・・その日、すべてが終わった後で、木崎は今さらのように獣から人間の顔になって、泣きじゃくる私を慰めたり、『昔からずっと好きだったんだ』と言い訳を始めたりしました。私は頭の中が真っ白になっていて、ただただ明日あなたが帰ってきたとき、なんと言えばいいのかと、そればかり思っていました」
「何も言い繕う必要はなかった。嘘をつくことも謝ることもしなくてよかった。ただ事実そのままを教えてくれればよかったんだ」
 時雄は呻くように言った。もしそうしていたら―――という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「事実を聞いて俺が君への態度を変えるとでも、思っていたのか。そんなに俺を信じられなかったのか」
 そう言って、時雄はため息をついた。
「・・・俺は残酷なことを言っているかい」
 千鶴はにこりと哀しく笑った。
「いえ。そうすれば―――よかったんですね。でも、私には出来なかったんです。あなたは木崎を昔からすごく嫌っていた。私はその木崎に」
 犯されたんです、と千鶴は言った。
 時雄は絶句した。

「呆然として人形のようになっている私に、木崎は再三言葉をかけましたが、私があまりに無反応なので、そのうち癇癪を起こしはじめました」

『今日俺との間にあったこと、旦那に言うのなら言え』
『俺は何も怖くない。失くすものがないからな』
『もし旦那にばれて失うものがあるとすれば、それはお前のほうだぞ』
 木崎はそんな月並みな捨てゼリフを残して、その日は去っていったのだという。
 そして一日、二日と日は経った。千鶴は悩んだ末、帰宅した時雄に結局何も告げることなく、木崎との出来事をひとり胸に閉まって洩らさなかった。
 時雄も妻の微妙な変化にまったく気づかなかった。
 千鶴の小心と時雄の迂闊さは、木崎のような人間にとっては格好の獲物だった。いくら日にちが過ぎても時雄からの反応がないことで、千鶴が時雄に何も告げなかったことを知った木崎は調子づいた。
 再び木崎からの電話がかかってきたとき、千鶴の心臓は凍りついた。その頃の千鶴にとって木崎は心の傷、憎むべき男以外の何者でもなかった。
 犯されてからの日々で溜まりに溜まったストレスを吐き出すように、千鶴は最初、泣きじゃくりながら電話口で木崎を激しくなじったらしい。木崎はそれを黙って聞いていたようだが、やがて
『旦那には何も言わなかったようだな』
 と、言った。
 図星を指されて千鶴は思わず絶句したという。
『それがいい。あいつはひとの過ちを簡単に許せるような人間じゃないからな。たとえどんな言い訳をしようが、俺に犯されたと聞いたら、お前は即刻その家から叩き出されるぞ』
 まさか、そうなりたくはないよなあ―――
 時雄の耳に木崎のあの厭らしい声が響いた。  
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七塚 10/11(水) 20:55:49 No.20061011205549 削除

 そして―――
 千鶴は昔語りを始めた。
 今まで決して彼女の口から語られることのなかった、あのときのことを。

「大学の美術サークルの同窓会がすべての始まりだったんです―――」

「同窓会のあった七年前のあの日、私はお友達の金谷エミさんと一緒に会場のお店に出かけることになっていました。覚えていますか?」
「覚えているよ。俺は仕事でいけなかったが、その話は君から聞いた」
 時雄が答えると、千鶴はこくりとうなずいた。
「そうでした。でも実際は違ったんです。私はその日、同窓会へ出席しなかったんです」
「なぜ・・・・」
「あの日、あなたがお仕事に出かけてからしばらくして、電話がかかってきたんです。木崎からでした」
 『木崎』の名前を聞いた瞬間、時雄の胸はざわめいた。
「木崎は同窓会を主催していた幹事の田村さんに聞いて、私たちの連絡先やあなたが当日欠席することなどを知ったらしいのです。そして、あなたがいないのなら、自分が代わりに会場まで送っていこうかと誘ってきました。私が『金谷さんといっしょに電車で行くことになっている』と断ると、『それなら二人まとめて車で送っていこう』、と言われました。それ以上断る理由もなくて、私はその申し出を受けてしまいました。それが間違いでした」
「・・・・・・・」
「木崎は予定の時刻より、かなり早めに私たちのあの家へやってきたのです。『金谷さんはまだ来ていません』と言うと、『それなら家の中で待たせてくれ』と言われました。あなたが大学時代から木崎を嫌っていたことは知っていましたし、私自身正直言って苦手なタイプでしたけれども、気の弱い私は面と向かってその申し出をはねつけることも出来ませんでした。結局、私は木崎を家にあげてしまったのです。そして」
 細く白い喉がこくっと動くのが見えた。
 千鶴がその先に何を言おうとしているのか、時雄はすでに分かっていた。
「木崎に襲われたのか・・・」
 呟いた声はかすれていた。
 千鶴は答えなかった。ただ、震えていた。
「私は馬鹿でした。油断があったんです。好きなひとではなかったし、学生時代に彼から自分がどう見られていたかも知っていましたけれど、その頃にはもう何年も時が経っていて、私はすでにあなたの妻でした。だから―――何も危険なことはないと、そう思っていたんです」
 千鶴はすっと瞳を閉じた。
「木崎に襲われて・・・犯されているときに、何度も何度も玄関のチャイムが鳴りました。あれは間違いなく金谷さんだったのでしょうけれども、そのときの私はなぜかあなたが助けに来てくれたと思いました。夢中になってあなたの名前を読んだことを覚えています」
「俺はそのとき出張で仙台にいた・・・」
 言わずともいいことを、時雄は言った。限りなく絶望的な声で。
「そうですね・・・」
 千鶴はうつむき、短くそう答えた。
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